朝一はお内仏(仏壇)閉扉のおつとめへ。
簡単な式ですが、思いは複雑でした。
2年ほど前になりますが、一人住まいだったご門徒さんがお風呂場で亡くなりました。
相続された親族は今回その自宅を解体することになったそう。
ところが何の気なしに、まずは・・・と家の中の清掃を業者に依頼したところ施主に「仏壇は何とかしたか・・・」との問い合わせがあったそう。
それは要は世に言う「供養」とか一歩踏み込んで「除霊」「お祓い」とかいうもので、「それなりの者」による「それなりの段どり」を踏んだものが催行されたかどうかであって、それがマダであるなら「やってくれ」ということです。
私ども真宗の教えに追善供養や霊的発想は皆無、ましてお祓いなどは宗旨違いなのですが、「念仏を同座してタノム」の依頼については当然の如く承ります。
ただし、今回は一昨日イキナリ、電話での依頼でしたので一旦はお断りしましたが、昨日は朝は時間がありましたので9時の約束で了解しました。
業者さんが現着するのは8時というのが本邦当然のならいですから奥方に「8時に行く」と言い出した頃、丁度施主より業者さんは遠方なので「10時過ぎに」と電話がありました。
施主もまた遠方ですので業者さん2人しかその閉扉式に立ち会う人はいません。
私の父でしたら憮然とするところなのでしょうが、真宗の坊さんは阿弥陀さんの正面には参って導師はつとめはしますが同座する念仏者が「ある」というのが一理となります。
ところが作業員さんにそれを強制するのも酷なことで、私はもはや独りであっても諸仏が「ある」と割り切ってお内仏前に進みました。
すると作業員さん2名は作業の手を止めて、すすんで私の後ろに立っていました。
私は感謝して点火した線香を二人に手渡して参拝していただいたのちおつとめに付き合っていただきました。
その後、何一つ損傷ない綺麗なままのお内仏に掛けられたお軸を回収し扉を締めさせていただいたのですが、私の祖父と故人がおそらくその父母の法要の際に撮影したであろう2ショットの写真を中から発見したり、上に掛けられた故人の父母の遺影はどうなるのだろう・・・と。
しっかりと大谷祖廟への分骨も済ませていることもわかりましたが、ご当人の分骨はまだのよう。
あれだけのお内仏を相続しないということも心残りですが、檀家さんとしてそれが繋がらなかったことですのでうやむやが残りました。
話は変わりますが世にはまったくアホらしくてナンセンスな表現「事故物件」という大衆の興味を煽るような言葉があって、ましてやそれをネタにしたオカルトチックでおバカなストーリーをつくりあげ、客寄せ、ひと儲けを企む風が見受けられますが、そればっかりは反意を思います。お遊びは大概にし己を知るべしと。
なぜなら人は100%死にます。
また独りで亡くなったとしてもさして不思議なことではありません。その時は「独り」というのが普通のことですよ。
以前といえば自宅で亡くなることは当たり前。
何故にして病院はよくて家では「お祓い」が必要なのでしょうかね。まったく意味不明。
私が通夜などで拝読する帰敬偈はひとりひとりに作り、表紙も用意してそれに包みます。
法要でそれを拝読することはありませんが、その表紙裏に記した文言が仏説無量寿経からの言葉。
「 人 世間の愛欲の中に在りて
独り生れ 独り死し 独り去り 独り来る 」
なお、それを記すという法要のいわれはありません。
要は私の勝手な差配のこと。
そう考えると独りで念佛も悪くナイですね。
そして今回のその閉扉式が
「それなりの者」による「それなりの段どり」であったかどうかはわかりませんが・・・。
画像は掛川の住宅街にある松平定吉の墓―遠江塚(場所はこちら)。相当前の画像ですから現在のところよくわかりませんが。
父親が松平定勝で家康の弟(異父)。こちらは掛川城でお馴染みの山内一豊がありますが彼は土佐に移封されますので藩制としては定勝から。その長子が定吉になります。
ちなみに、この系の末にNHK「その時歴史は・・・」のナレーション、松平アナがいますね。
定吉は家康の甥っ子ということになりますが、なぜか十九歳の時に腹を切らされています。
理由は家康の機嫌を壊した(鷺を射殺した)等、推測されていますがその件「腹まで切らせること?」と大いに疑問に思います。
家はその弟が継承していますので「家」そのものへの懲罰ではなかったはず。
そして、この墓石の有り様。
結界として門扉には葵紋が見られますが、「松平」を名のっている割にいかにもいかにも・・・という感。
そして五輪塔がまともなカタチで残っていないことも腑に落ちませんね。
世の中、わからないことばかりで・・・
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