NHKの番組を視聴しましたが同居している家族の死の発見に「3日以上経過」したという事案、推定で日本全国で年間3000件はあるといいます。
一言で今の家族内での関係性が「一昔前のそれとは違う」とはいうもののいくら何でも・・・の感ありますね。
寺の庫裏の如く広く部屋が散らばっているのならば親と言えど「見かけない」こともありえるかも知れませんが・・・
その家庭内超希薄化関係からくる各戸各個の孤立化については地区の見守り、声掛けなどの補完システムが立ち入る隙がありませんね。家の中の細々としたところは見えにくいというのは当然の事。
昨日の番組では5年以上父親の遺体をそのまま、放置して、ひたすら消臭剤で誤魔化し続けたという例があって唖然とさせられましたが、通常の神経ではまずありえない、と思われることではあってもその手の事案が確実に増えているという現実にやはり「病んでいる社会」というものを感じます。
社会の隅々の人々の心に隙間、荒みがあるという現状、その孤立化している人々に手を伸ばさずして如何にこの国の将来の繁栄を見られるのでしょう。
「経済」にばかり片足を突っ込んで「人」の命の軽重につき最近有りがちになった「些末」(大局は経済成長)なこととして「見捨てられて致し方なし」の如くの風潮は解せません。
「先進国」であるなど胸を張るなどとは誠、おこがましいことと。
家の中を国に覗き見られることはプライバシーに関わることで難しいこととは思いますが、国はもっと強く積極的に動かなければならないでしょう。
民生委員等、地区コミュニティに活力を与えるよう工夫し、自治体、警察などとの横のつながりを密に情報を共有し「関わる」ことを意識していただきたい。
新しいソーリ殿は「聞く事」が得意だとのこと。
私どもも「聞法第一」という語があってその言葉に「ほほう・・・」などとうまいこと言ったと感心したのでしたが、評論解説者の池上氏がそれを「誰の言うことを・・・」と投げかけていたそう。
そういうことでその件「アベノマスクの『言うことを聞く』」ことね・・・とさらに合点した次第。
それでは以前と同じ傀儡じゃあ・・・。
海外投資家はじめ「旧態依然のガッカリ人事で資金を引き揚げた」と解説していました。ガースー退陣でお祭り気分だったので元の木阿弥。
さて、昨日の古道七曲峠道の受取り地蔵の続き。
「受取」があるからには「埋め墓」がつきものですが、そちらは古道を隔てた真ん前の林の中④。
ぱっと見、こんなものか・・・の感。
鎌倉期に造立された受取地蔵となれば相当数の墓碑があってもいいのか・・・というところ。
尚、埋墓墓域とわかっていてそちらを放っつき歩くのは少々憚られるというか、踏み抜くなどして荒らしたくないという気持ちもあります。
そして「埋め墓」の対になる「参り(詣り)墓」についてはやはり各自宅にというのがこの辺りの流れのような。
通常はデカイ五輪塔があったりしますね。
この受取地蔵の石龕前には棺を置く石が二つ、しっかり残っています①②③。そういった石の対を見て尚、これが受取地蔵であることが判るというものです。
周辺には石仏たちが並んでいます。
室町期から江戸期のものですが当初はこれらが各家の「参り墓」だったのでしょうね。
中には大永八年(1528)、天文二十三年(1554)、弘治二年(1558)の銘があるとのこと(奈良県史)。
私もついニッコリと微笑み返ししてしまったのは最後の石仏。
まさに笑っている地蔵です。
こちらも十分に「笑い仏」。
受取-埋墓-参り墓そして最後に笑う仏。
墓地は楽しい。
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