日吉神社裏山「塔の森」 奈良~平安期の十三重塔

人の思い通りに木々を伐採し森をなくして私(人)のために土地を耕作活用しようと活動してきたのが歴史でした。

当初は主として稲作用の土地開墾が江戸期に入って、より上等な生活のためのインフラの整備・・・人口増に伴う宅地開発と「自然」を相手に大鉈を振るい本格対峙を始めたのが近年のこと。

一見、人が制圧したかと思われる「自然」に今、大攻勢にあって反省を促されているというのが現代ですね。

要はこの50年、いや明治以降「経済」を旗印に人々が狂喜乱舞したそのツケをこれから支払っていかなくてはならないといった構図かも知れません。

 

どうやらすべてが無謀な計らいだったようですね。

地球の温暖化を進めまたその温暖化をストップできる力量が追い付けない様を見せられています。

毎年毎年梅雨といえば前線が長い間停滞し、ドカ雨が降り続け大災害が起こるというパターンは今後長く続くのでしょうね。

一説にこれまでは比較的九州など西日本に多かった豪雨が東日本以北に移ってくるといいます。

まぁそれはそれで日本全国均等に被災地として巡ることですから平等といえるかも知れません。

 

いつどこでどのようにして自然災害に巻き込まれてしまうのか、人々は常時頭の中に入れておかなくてはならないということですね。

どちらにおいても先達の手掛けた開発とそれに付随する構造物が建ちまくっていますが、それら更新時期も同時に来ていますし、自然は温暖化によっていよいよ狂暴化していますからね。

「人の作ったもの」「人の考えたもの」「人そのもの」の信用というものが危うくなっている時代です。

 

熱海の土石流の起因となった「開発行為」・・・経済活動・・に大きな「不信」を思いました。

勿論利便性を追求しつつある私の反省も。

 

私は森の中を歩くことが少なくありませんが(主に山城歩き)木々に覆われた森林は神聖な雰囲気とうまい空気に浸って気分は最高潮に達します。

それはどちらにおいてでも享受できる自然の恵みですね。

 

今、山の土砂崩落について言われていますが山を歩いていて時に崩落個所を目にしますが、その「壊れているもの」といえば殆ど人間の工作物です。

橋にしろ道にしろ壁にしろ・・・それを思うと高速道路の高架にトンネルに橋梁・・・いつ崩壊しても不思議ではありません。

勿論拙寺本堂もそうですが「人の作ったものは滅びる」もの・・・などと思い出して少々の空しさも感じるものです。

ただし鉄筋コンクリートの崩壊は木材の構造物よりも遥かに弱いものがありますからね。まぁどれもこれもそれらは森を壊して作られたものでした。

 

ということで森を壊したらいずれその報いを受けるものであるという論理に辿り着きます。

壊したものと報いを受ける者は大抵の場合直接関係がないというのが常。

不公平とは思うものの「人-自然」の大きなくくりではどなたかがそのしっぺ返しを受けなくてはならないのですね。

そしてやはり「人は自然に勝ることはできない」ということ。

それをコントロールできるという者の言い分こそ詭弁です。

その一番「悪辣な人の心」を制御しなくてはならないのですが、それができない管理者(国と自治体)ならば失格としかいいようなし。

 

さて、先日は奈良日吉神社の石仏について記しましたがその背後の山が「塔の森」です。

その名は峰の上にある推定十三重塔のことを指しています。

日吉神社の道が不安だらけだったこともあり、そちらで車を置いて山道を歩き出したのですが、やはりその石塔にお目にかかれるのか不安の気持ちに覆われていました。

途中に分かれ道があったりでしたから。

もっともそういう時は森を満喫しようと割り切るだけですがね。

 

長い階段と鳥居の朱色が目に入ると「徒労になることはまずないだろう」と自分を励ましなから自信に変え、登り切ったとき、その不安は感動に変わりました。

十三重といいながら六重を残すばかりですがよく見ると崩落した屋根の残欠が積み寄せられていました。

 

凝灰岩製の六角型層塔で現在の高さは240㎝。

特に下段基礎の格狭間に風情を感じます。

奈良、平安期の手法といいますがここまでの「崩壊」の様でなおも立ち続ける姿は立派としか言いようがありません。

 

つい、いつからこちらに・・・と声を掛けてしまいました。

奈良時代からだと知っているくせに・・・。