4月に亡くなられて繰り延べしていた四十九日の法要がありました。朝から台風のコースと雨の降りだし予想にやきもきさせられました。
今回は特に付随する自宅と墓地での事前のお勤めがありましたので降雨について「天候が荒れ気味だったらさらに順延を・・・」などと3日ほど前に提案までしたほどでした。
だいたい「午前10時以降」の降りだしというのが予想でしたが、結局最後まで雨は降らず。つい有頂天に・・・嬉しすぎの感。
まずは、皆さんズブ濡れというのが頭の中にありましたから。
さて、先日は史跡研究会の皆さんが史料館に集まりました。
そこで冒頭出た件が雑誌の付録について。
「こんなのが付いてきた」とうれしそうに披露されたのが伊能忠敬の描いた地図。東海道・富士山周辺のものですが、その素材が気が利いています。生活防水素材ということでただの紙キレではないのです。
地図というものはぼんやり眺めているだけでも面白いものです。
特に最近では高速のS.A.で貰ってきたものをトイレの壁に貼り付けるなどしています。ただし紙は破けやすく劣化が進みがち。
貼り付けなくても折り畳みの繰り返しからどうしても折り目から穴が開いてしまいます。
ところがその地図の素材は巷にありがちな紙ではなく一見したところビニール風。これからどういう劣化となるのかわかりませんが「コレは私も欲しい!!」と思ってもう一方の分と合わせてその場で近くの布施書店に在庫確認、取り置きしていただきました。
その地図を皆さんで眺めたわけですが、私の無知から「この細密地図がいわゆる伊能の地図なの?」と半信半疑。
よくもまぁあの時代に今と殆ど変わらないような地図が作れるものか・・・と改めて感心したのでした。
その地図を紹介した方が当相良周辺が「村」であって「相良」が村でなく「町」というのはどういうこと?というなげかけが。
昨日の成瀬大域の書でも「於相良街」とありましたが「当時、相良は『町』だったから」の結論となってその理由を深く考える必要はなかったということで収まりました。
ここでもふっと思い出したのがその「相良」の名を残さず「牧之原市」などいう以前で言えば金谷付近の台地をイメージするような市名と改めた愚に「勿体ない」を感じたワケです。
それにしてもオマケ欲しさに何か買う・・・など久しぶりのこと。
奥方は最近の流行りものだといいますが・・・。しっかりと本体の方も目を通させていただきます。
ふ~ん、伊能忠敬を大河ドラマに・・・そんな話もあったのですね。
当流ではその雑誌の名称について耳に馴染んだ言葉ではあります。
阿弥陀経の最後の部分ですが、「歓喜信受作礼而去」(かんぎしんじゅさらいにこ)とあります。
「作礼」で「さらい」ですが「深く礼をして・・・」のイメージ。
「その件むちゃくちゃよろこんでそれを信じ、御礼してそこをあとにしました」という経の締めの部分です。
雑誌の名前についてその意味は知りません。
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お祭り大好き (月曜日, 28 6月 2021 13:39)
今回も「伊能忠敬地図」をご教示いただき有難う御座いました。
早速書店に出掛け手に入れてきました。
明治22(1889)年の町制施行前につき坂井村・落居村など駿河湾沿いの村々が記載されている一方、海老江村・菅ケ谷村などの名前がないのが残念です。
本6/28月の静岡新聞に三木卓さんの文章があり、「伊能忠敬地図」も登場していました(萩間村が記載されていない旨の感想あり)。
幕末に江戸から移住した幕臣の子孫の方が、伊能忠敬研究会に属し熱心で面識を得るも教えていただく前に逝去され残念に感じています。
今井一光 (月曜日, 28 6月 2021 21:09)
ありがとうございます。
伊能忠敬の地図の性質上、沿海重視は否めません。
それにしても多様な機材を使用していることはわかりますが、よくもまぁあの手のモノだけであれだけの明細地図が仕上げられるものかまったく驚きです。
大河ドラマ化もなかなかあり得る話かと思ったところです。