私どもが横浜から本格的にこちら相良にて活動するようになったのが2006年の夏。
既に15年目となりましたが、まさにその時間の経過の早さには驚かされるばかり。
本日は久しぶりに法事がありましたが、その施主が孫、子たちに両脇を抱えられるように本堂に上がってきました。
90歳を超えていますので不思議なことではありませんが。
足腰が弱って、自主的に歩くのが億劫に感じるようになって「いよいよダメになった」などと巷でよく聞きますが、私が見ていてもその方のハラハラさせられる歩のおぼつかなさに感じることは、歩いて欲しいが歩かせるのは「危ない」と思うのが人情・・・というもの。
私は法事が終わってから小雨が降りだしたとき、境内に軽自動車ならラクに入れることができ、切り返し方向転換の方法も紹介しましたが、子供たちは「駐車場まで歩きなさい」と尻腰を押していました。
やはり「足腰が悪い、辛い、のんびり・・・」であるからといって「足を使わないでイイ」その方法の紹介は本当の優しさではないのかも知れないと思ったのでした。
車での移動は便利このうえないものがありますが、やはりそれは「本来の私」ではないワケで、基本、五体を使わなくてはどんどん退化していずれは動かなくもなるでしょうからね。
その方は静波在住で、当初拙寺にお参りの際境内でお会いすると「ぽんぽんで来た」と声をかけてきました。
自転車で来られることもありましたからそれを強調したのかも知れません。
「ぽんぽん」とはこの地方で昔から良く聞く語で、カブ、バイクのことを言いますね。
この15年はあっという間でしたが、私を含めどなたも老いというものが進みました。
できないことばかりが増えて、それを数えるのも辛いですね。
年が明け(一つ歳が増えて・・・)一休さんが言ったといわれる
「門松は 冥途の旅の 一里塚
めでたくもあり めでたくもなし」
を思い起こしますが、いよいよそれは「めでたくも何ともナイ」という風に感じるようになりました。
老いを受け入れることこそ・・・何よりの苦しみなのかも。
そう断ずれば「病の苦しみを知らない」と叱られそうですがね・・・。
いやいや自然体でいけば「老-病-死」はセットであってその忌避(老への)には病と死が隠れているということですから。
さて、先般は東大寺大仏殿「殆ど独り占め」について記しましたがあの広間で傑出した文化財といえば八角灯籠です。
以前、京都国立博物館の館外庭園にあったそのレプリカについて記したことを覚えていますがその後それについての追記があったかどうか失念、とりあえず折角他の観光客が映り込んでいない八角灯籠画像がありますのでアップしました。
何といってもウリは創建当時(奈良時代)のものだということ。
勿論国宝指定になっています。
笛や笙などを奏でる天人(音声菩薩 おんじょうぼさつ)が浮き彫りされていますが、どうしても上手に撮れませんので失礼。
外の明るさから灯籠側面が暗くなってしまいます。
その菱形格子の戸びらもレプリカ部分が着いていて本物はミュージアムに展示がありました。
青銅製ということもあり酸性雨に晒されれば劣化は進むでしょうね。
いっそのことすべてレプリカにして本物はミュージアム室内に展示するようになるのかも知れません。
人間と違って動くものではないですから室内に籠っていれば安心安定、扉の盗難のおそれもナシ。
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