『人新世(ひとしんせい)の「資本論」』なる書籍の内容をさらっと知ることとなりましたが、その著者の警鐘に私たちは耳を傾けるべきと思った次第。
ぱっと見どうにもならないよう思うことが多くそれら「問題である」などと感じられないでいる日常漫然への改善テーマも含みます。
それでいて内容はすべて正論であると思えます。
日本という世界でも指折りの経済大国の「漫然」の中に居て何らの不足らしい不足も感じず「楽」(生活)を享受し続ける私ですがその警告には考えさせられました。
それは一言で「経済成長」などいう数値の多寡を目標にしないということでしょうか。
ここのところコロナへの失政の数々後手後手の言い訳として「経済も大事」と流行りもののようにその語彙を持ち出す政治屋の出現を見ますがその「経済も」の前に来る主語たるものが「人の命は大事だが・・・」なのですからそれは人の命と並立している観念ですね。
仏教的に言ってその重さと並立するものなどはナイというのは当然のこと。
よって最近の私は「何が経済だ」というの考えが脳内を占めていました。
以前も記したことがありましたが、チョコレートでお馴染みのガーナという国の子供たちは「チョコレートなんて知らない」という件。学校にも行かずその農園で過酷な労働に従事している子供たちがいて、私たちは子供のころからそのおいしいおやつを好き放題にまた気楽に口にしていました。
新疆の綿原料の使用の件で先日来名が挙がった企業もしかり、要は世界の弱者の生活、貧困の上に私のいつもの生活があるということですね。
すべての経済活動を停止しろというものではありませんね、一部ごく僅かの者たちに偏る富の蓄積と貧困層からの富の収奪こそが正義であろかの如くの社会がオカシイというものですね。
地球の温暖化についても富裕層といわれるトップ10の国民、勿論われら日本人も含まれますが全世界の二酸化炭素の約半分を排出して地球に負荷をかけまくっている状況はね・・・
それでいて低所得といわれる地球上の半分の人たちが出すCO2は7%、その人たちが気候変動の影響を一番に受けているとのこと。
よってその現状を理解し、経済大国といわれる国々が率先して「修正すべき」いうことです。
その著者の各提案の中の一つ「贅沢税の徴収」など私は特に面白く感じました。
たとえば海外旅行に行く回数に規制をかけるとか、国内旅行でも回数を決めてその規定数を超えるものには課税していく・・・といったものでした。
アフリカ、中南米、アジアの貧困層でその「海外ツアー」を楽しむという発想は生まれないでしょうからね。
私たちはその言葉「海外旅行」を聞いてただ「ふ~ん」というくらいの日常的会話の中に出て来る「普通」でしたから。
まぁそれも「出張です、帰省です、講習会、研修・・・」などいう「理屈」も出て来るでしょうからその厳密さをコントロールできるか疑問ですが、そうあった(海外旅行に贅沢税)とすれば「かなり面白い」と感じました。
もっともそれは私の勝手な理由、海外旅行などサラサラ興味がないということと国内であっても「のんびり」と温泉や観光に時間を向けるわけではありませんので。
私の感覚での「遠乗り」といえば旅行ではなく大抵が研修研鑽の一部(自称です)ですが・・・。
昨日は境内作業はなし。法事もナシ。
午後一番に始まる静岡でのシンポジウム「天守台と金箔瓦の謎に迫る」を見物のため奥方と午前中に出発しました。
私のみ参加の事前予約をしていましたが、空席多数とのことで駅近くで買い物をしながら待つという奥方を誘うも「それには及ばず」と。
空席は勿論着座に1席飛ばしとするワケですがそれでも結構に空きはありました。
当初「1時間半程度で終わるだろう」と言って別れましたが、終了時間は殆ど16時。
それをメールで伝えると奥方は「調子にのるな」と激怒していました。
しかし館内エアコン効きすぎで寒かったのと奈良の博物館や大仏殿よりかなり密な場所でした。やはり室内に長時間滞留するのは心身ともに疲労します。
内容を一言でいうと「発掘された金箔瓦と天正の天守については家康が普請、中村一氏はそれに手を加えず城に入った」というもの。
静岡人にとっては「家康の金箔瓦」ということでうまい具合に収まるワケですが、城郭考古学の中井均氏らによる考察、穴太衆は秀吉子飼いで家康等「家臣」への城普請へのレンタルがあったこと・・・家康は当時秀吉家臣団としての自身立場を受け入れていた・・・という解釈もあって秀吉の管理の元の駿府城から大量金箔瓦の出土を説明していました。
中村一氏関連で駿府城に手を加えた史料がないことと、駿府城が秀吉の聚楽第に縄張りと形状が似ているなどなど・・・とはいえそれら、あくまでも推測というのが歴史の謎。
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お祭り大好き (日曜日, 13 6月 2021 03:42)
1週間のなかで奈良・駿府城とお出かけお疲れさまでした。 奥様の待ちぼうけの心情が理解できます。 「シンポジウム」はやはりエアコンの効き過ぎが気になりました。 聴講者のなかには大石泰史さんのような姿もありました。 安部龍太郎さんが、静岡新聞に「家康」を連載中で「秀吉臣下の様子」と重なると感じました。 中村一氏が一旦は脚光を浴びましたが、臨済寺の墓所で再び静かに眠るのみとなりました・・・。
今井一光 (日曜日, 13 6月 2021 09:59)
ありがとうございます。
それだけお寺が暇ということで、おかげさま・・・です。
まぁもともと時間がゆっくりと動く場所です。
それなりにまかせてかつ気の赴くままにすごせればと。
本当に久々の静岡市内の闊歩でしたが人多数のうえノーマスクの人もたくさん見受けられました。
「あの人がそうなら私も・・・」という具合になりがちですが、外をほっつき歩くならそのマスクの習慣くらいは守らないとイケない・・・などと自身言い聞かせて歩きました。
車は奥方の差配、駅前の駐車場に。
出歩くならばマスクなしでもいい場所を選びたいものです。
ただし夏の墓、遺跡巡りは草ぼうぼうのうえ虫の来襲がありますからね。
山城もしかり。