東京の「女墓場」はさすがに遠隔地に赴く時は地下鉄に乗るといいます。
「そんなもん怖くないかい?」と聞けば乗客の暗黙の了解があって各自すすんで窓を開け、知り合いがいたとしても「だんまり」続けるとのこと。
もし会話がはずんでしまったとすれば周囲からジロジロ見られることは必至。
ただ黙って騒音と風通しの良すぎる故の寒さに耐えてやり過ごすとのこと。1枚余分に着こまないとムリと。
車掌さん等、係員も窓オープンのチェックに廻っているそうです。
電車等公共交通機関に乗ることがない田舎者の私には新しく面白い作法の教示をいただきました。
彼女の近くでは新規感染者が出たといいますので、よくもまぁうまいことそれに関わらないで生活できるものだと感心しています。
政治家やエライ人たちが「スティホーム」第一の社会にあって「私は特別」とばかりにあっちこっち遊び歩いたことがバレて顰蹙を買っていましたがどうやらその「独断ハメ外し」にはその「特別」は計算づくであるとも。
もし新コロに罹っちゃったとしても最優先かつ最上級の看護を受けることができ、大した重篤状態にはならないという確信犯的行動原理があるようですね。
世の中には病院にも行けず、救急車内で病院たらい回し、また自宅放置で亡くなる人がまたぞろいるのにもかかわらず、まったくもって酷い行状であると言わざるを得ませんね。
それでも昨日辺りの大阪や東京の新コロ感染者数の低下が顕著のよう。その分、地方に拡散している様子。
東京は一週前から200人弱の減少ですから傾向としてはよろしいようで。
大阪は何と509人。一時期からいえば半減した感あってこれは失礼ながら意外なことでした。
先日はその数字を西暦に準えて平安時代の三桁から鎌倉時代の四桁を固めつつ、南北朝動乱期をも狙うような感じが見受けられましたからね。
鎌倉幕府滅亡の1333をいつ突破し、はたまた現代に近づくのか・・・など見どころでしたので。
医療関係者の皆さんが必死になって対応している中、その数字遊びをする田舎者の件、どうかお許しを。
さて、清浄光寺(遊行寺)にはその1333年、「正慶二年」が記された墓碑があります。
南部右馬頭茂時の墓です。
北条一統が鎌倉東勝寺で自害した際、茂時は包囲を突破してこちら清浄光寺に至り家臣とともに果てたといいます。
南部といえば馴染深いのは南部鉄器。
拙寺でも冬場になると引っ張り出して奥方の貧血予防に活用しています。
そしてやはり岩手の南部藩のイメージ強し。
ところがその大元ときたら甲州の南部町だったのでした。
鎌倉以降、新補地頭の赴任から戦国期の動乱、江戸期の領地替えによって日本の人流は拡散されていったのでした。
宝篋印塔たち惜しくも、またいずれも相輪上部が欠落していますが、素敵な佇まい。
茂時の果敢な敵中突破という件もそうですが心を打たれます。
私なら逃げて逃げて逃げまくり生き恥とも卑怯とも言われようが生き延びることを考えますが・・・。
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