緊急事態宣言だか蔓延防止だかよく理解していない私が言うのも何ですが、昨日その「緊急」の方の宣言が追加して出されていましたね。
昨日記した北海道、そして広島と岡山の追加だそうです。
ガースーは当初、それらも蔓延防止措置ということで決めていたそうですが、分科会の諮問を通してからその3つの地域を緊急宣言に変更したとのこと。
分科会の諮問では蔓延防止という形式を通そうとする最初の案への賛成者は1名きりだったといいます。
反対者多数につき、ここへ来てそれを強行したらマズいと思ったのでしょう、これまでなかったようなこの直前変更があったのでした。
分科会の当初反対したというテレビでもお馴染みになった方のコメントに「看過できない」のフレーズがありましたが爆笑ですね。
その「看過」とは単純に「見逃すことはできない」風にさらっと解釈しそうになりますが、この「看過できない」という語を聞くとウラに非難(時に侮蔑も)の気持ちを含めた極めて強い表現を思いますね。
特に不道徳、不法、滅裂、大矛盾、お下劣、破廉恥の類の者または事象に対してそういったレベルの者たちを監督する者がよく使用する文言のように感じます。
内閣が「こうしますよ・・・」とこれまで通りに形骸化した感のあった分科会に「諮問」したところ、その語句を使われて「蹴飛ばされた」ようなイメージを思ったのでした。
国のやることに対して「看過できない」と言われてしまうことに「どれだけ野放図で間抜けなんだよ・・・」を思わせました。
堪忍袋の緒が切れたところで、それを見てその三カ所を急遽咄嗟に「宣言」に入れることを思い立ったのでしょう。
ただしそうしたところで果たしてどう変わるものか・・・
さて、「堪忍袋」とは人の度量を表す語です。
その「容量」が一杯に、はちきれんばかりにため込まれそれを縛る緒が「ブチっと」切れてしまうという比喩です。
「堪忍」というと「怒りを抑え、人の過ちを許すこと」の意ではありますが少々古風な言葉のよう、最近はその使用を前述の「袋」以外、あまり聞かなくなってしまいました。
諺にも「ならぬ堪忍、するが堪忍」などあってそれをあげてお説教された覚えはありますが・・・
ただしそれは私の場合は頻繁に使用する語ではあります。
それは堪忍を懇願する機会、立場が多くなったからですね。
梯子から落ちて数多迷惑をかけた人たちに堪忍、叔母にとって本意でない施設に入所させて堪忍、他者をうっかり言葉で傷つけてしまって堪忍、日々の失敗山積に奥方に堪忍、ネコの尻尾を踏んで堪忍・・・年がら年中堪忍していただいて生かされる私かいました。
その堪忍とはそもそも仏教からきた言葉で「娑婆」のことですね。
娑婆とは「苦界」であって堪忍そのものだということです。
大谷大学の木村宣彰氏のその短い解説の締めに沢庵和尚の言葉をあげていました。
「堪忍の二字、常に思ふべし。百戦百勝は、忍に如かず」~東海夜話~と。
「人類がこの世界で共に生きようとすれば、自分だけ勝ち続けようとするのではなく、堪忍が肝要と心得なくてはならない・・・」でした。
この「自分だけ勝つ」を見て、今各地市町の「長」さんたちが我先にワクチンを注射していたなど、耳を疑いたくなるような破廉恥醜態を思い浮かべました。
私は小学校頃は今よりずっと読書をしていましたが、それは特に太平洋戦争の戦記もののウェイトが高いものがありました。
どうすれば「戦いに負けるか・・・」を子供心に歯がゆいながら触れさせていただきましたがその時の海軍の「長」たるものの当たり前のマナーのようなものにその責の「大変さ」を思いました。
それが海に沈む我が艦船と生命を共にするというところ。
「全艦退避」の命を下し乗員がすべて海に飛び込んだあと、ブリッジに残ったまま船と沈んでいくという件です。
軍人的精神論を鼓舞するワケではありませんが、日本の海軍には統率にそういった無言の責任と、「背中を見せる」という気概がありましたね。
今の「長」たちは「真っ先に自分が救命胴衣を着けて逃げる・・・」そんな情景が思い浮かんできました。市民を捨てて・・・
「自分は確実に助かりたい」の保身表明ですし、それがバレたら赤っ恥であることがわからないのでしょうかね。
それでは誰も付いてくる人はいないでしょう。恥を恥と思わぬ首長とは・・・その市民も情けない。
何も「死ね」と言っているのではありません。
「長」として選ばれたのだから市民町民を第一に思料する施策を進めていただかないと。
さて、その堪忍ですが、歴史の中で「堪忍料」なる語を聞きます。
要は上に「立つ者の優しさ」をおカネで表明するもののこと。
配下の者が戦死や病没してその遺族への供養料から始まって江戸期には大身の大名の改易に伴う代替地や当面の生活の糧として幕府や為政者が提供する金をそう呼んでいました。
昨日は清浄光寺参道に酒井忠重が自らの供養のため生前に建立した六地蔵について記しましたがその地蔵たちの端に五輪塔があります。
そちらがその酒井忠重の墓と言われています。
看板にはその旨記されていて、エピタフにもその法名「光岳院殿従五位前長刕大守鏡誉宗円大居士」と「酒井忠重」の名も彫られていますが彼は「市川で横死」というのが通説で、この寺に「墓」があることについての確証がないから「言われている」となります。
何故ならその時の彼の身分としては「色々あった」その人生のうち終盤になってから、惨めなものに落ちぶれていたからですね。
彼が死して一体誰がそれをフォロー(葬儀、墓地建立)できたのか・・・
推測としてはこのお寺に多くの寄進をしたスポンサー的時期があって、悲惨を見るに見かねた寺院関係者が手を差し伸べたか。
多少の土地財産も残っていてそれを元手にしたかも知れません。
色々あったその酒井忠重(長門守)の人生については藤沢周平の「長門守の陰謀」という短編小説に詳しいのでご興味のある方はどうぞ。
小説としての演出、特にラストシーンの刺客の出現など際立っていますが、内容は著者が詳細にその史実を各方面からの文献を紐解いてから執筆しているようで、当時の状況がよくわかります。
これは時代劇でよく使用される「御家騒動」だとか「家督乗っ取り」のモデルともいえる事件でもあります。
「酒井家(庄内藩 松山藩 大山藩)からみる大名評判記」(和田雄介氏) の中の斎藤正一氏の「庄内記」から記させていただくと、「初代藩主酒井忠勝の弟長門守忠重が兄忠勝を寵直し、忠勝の世子忠当を廃し、自子九八郎を立てて御家乗取りを陰謀し、(忠当の)忠心を擁護する家老高力喜兵衛と対立し、長門守の讒訴によって喜兵衛は忠勝の逆鱗に触れ追放された事件」とカンタンに。
そして
「長門守は、幕府の小姓衆に属し、白岩8000石を給されていたが、苛政のため領民を困窮」させて一揆を起こされるなど為政者としてかなりのトラブルメーカーということ。
それを咎に改易にされた挙句兄の忠勝に取り入ってその庄内藩お家乗っ取りを画策して失敗したという顛末です。
当初の忠勝の子の世子の忠当(ただまさ)はその陰謀から逃れ無事に藩主2代目として継承することができたのはたまたま父の忠勝が亡くなったこともありますが何と言っても岳父の「知恵伊豆」(松平伊豆守)の存在と働きは大きいでしょう。
藩主継承を引き釣り降ろそうとする動きに対して忠当の嫁の父親の存在はデカすぎます。無理くりの強行は破綻しますね。
ちなみに忠当は彼からすれば長門守は大罪人となりますが、2万両という大金を彼に与えて縁を切っています。
これも一つの堪忍料というものでしょう。
娑婆世界、「百戦百勝は、忍に如かず」。ただ「忍」。
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お祭り大好き (土曜日, 15 5月 2021 11:44)
井沢元彦講演会も延期になり、牧之原市のコロナの影響も少なくありませんが、ひたすら外出を抑えるのみです。
逆修塔が少なくないことを知りました。
酒井長門守忠重も未知の人物でしたが、藤沢周平作品と聞き興味津々です。
短編作品でもあり、早速「長門守の陰謀」の購読手配をしました。
今井一光 (土曜日, 15 5月 2021 21:17)
ありがとうございます。
本日は牧之原市で1名出ていました。
愛知県側に近い浜松は酷いですね。
どちらにも行かず家で読書が一番かもしれません。
これから梅雨という自宅軟禁期間となりますし。
ただし私は大量の雑用が控えていますので晴れてくれないと作業が進みません。
お祭り大好き (木曜日, 20 5月 2021 22:26)
「長門守の陰謀」は、短いこともありすぐ読み終わりました。
庄内藩の様子も理解出来ました。
今後も当ブログで知識を吸収させていただきます。
有難う御座いました。
今井一光 (金曜日, 21 5月 2021 08:02)
ありがとうございます。
こちらこそいつもお知恵を拝借しています。