光源寺大和写十一面観音 森鴎外記念館 戦後の復興

軽トラの車検が迫っているとのことで慌てました。

よって残りの会館の畳を少しでも処分場に持っていこうと周辺の片付けを行いました。

会館前に設置した二階の畳を滑り落とすためのスロープを撤去し本堂裏に運び、畳数枚と座布団、不要となった炊事道具を積み込みました。

 

処理場で大量の座布団を見た担当の方が「新調するの?」と声を掛けてくれました。

それは座布団を使う機会がまったくなくなったからの処分ですが(使用しても殆ど今はネコの寝床)、今時会合にしろ法要にしろ椅子の使用がなくては、やんわりとですがクレームが来ます。

そもそも会館を使用しなくなったのは2階の座敷まで「上がれない」「座れない」の声が多数あったからですね。

 

いま、拙寺での法要は参列者は椅子への着座は当たり前。

法要後の私のご挨拶は椅子(曲録)に腰を掛けず私だけが正面で正座するのか慣例となっています。

ある人が「皆さんより低位置になってしまう」と指摘されましたが、私は特にその高低差には意味がナイと思います。

高い場所と低い場所の緩みの問題(昨日)も関係ありませんしいつも仏から見下ろされ見守られている感覚であって私にとってその視線は慣れています。

 

 海外を主たる活躍の場としているアスリートのオリンピック開催についての意見が伝わってきました。

テニスの錦織選手は新コロ感染経験がありますが「死人を出してまで・・・」とストレートな言葉が・・・。

大坂選手もその開催を強く進めることへの疑念を吐露していましたが共通している言葉は「議論」。

 

もっと議論すべき・・・ということですが現状「ヤルヤル」の一方的主張のみ。昨日の通り、国民の半数が反対しているにも関わらずですからね。

スーパーマーケットでお菓子を買ってもらえない子供が床に寝転んでダダをこねているが如くに見えて・・・。

もっと議論というものがあってもいいですよね。

少なからず政に首を突っ込んでいるのですから論理的な検証をしていただき異論があるならしっかりと説明していただかないとね。

「やりたい、やりたい」だけでは・・・

「なぜ、ボクはそれがしたいの?・・・」優しく聞いてあげて・・・

 

さて、「女墓場」はその活動域、山手線の東部の画像を送ってくれます。

山登りはその友人と、墓場放浪は単独でウロついているようですが、雨さえ降らなければ外を歩きまくっていて健康を維持しているのでした。

 

先日は近場を散策したとのことで森鴎外記念館(文京区立)から光源寺というお寺を廻ったとのこと。

ちょうど記念館では

特別展「観潮楼の逸品―鴎外に愛されたものたち」を開催していますね。

森鴎外というと私の中高時代の読書と叔母さんの旦那をイメージします。叔父さんはどういった経緯か知りませんが軍医として中国に転戦したあと、帰還後ヤクザな商売に手を染めていました。

敗戦後の国内は軍人嫌いの世の中にあってまともな仕事にはありつけなかったと聞いています。

 

その失火に戦災、空襲によって灰燼に帰したというのが森鴎外の住居「観潮楼」と庭。

それを記念館として改修したというもの。

 

そしてその近くの光源寺。

こちらには別名「駒込大観音」と呼ばれる十一面観音が・・・

「大和写」とありますがこれが奈良長谷寺の十一面観音の「コピーです」ということ。

錫杖を持つ大きな十一面観音は長谷寺由来ということですね。

 

その観音様も空襲で焼け、再建されたものだそう。

 

昨朝の新聞に巨大広告がありました。面白いですね。

宝島社の意見広告ですが「政治に殺される」が印象的。

もっともなことです。

新コロに「竹槍で戦う」(精神論のみで戦う)のと同じかも。

戦争で殺されるのは政治に殺されるのと同様。

 

ガースーの(オリンピックを)「諦めない」というフレーズに違和感あり。

私どもの宗旨はむしろ「諦めろ」(あきらかにしろ)ですからね。

 

私は毎日のようにあきらめています。

「あきらめる」・・・一旦止まること。肩の荷を降ろすこと。

そして耳を傾けること。