昨日は雨予報につき、ぷらぷら遊んでいた一昨日の穴埋めをしようと朝からスタンバイ。
連休中にため込んだ花ガラと会館の畳にガラクタ類を処理場に搬出しようという算段でした。
すると朝7時に電話が・・・。
施設の叔母が5時にトイレで転がって痛がっているとのことでした。そこでいつもの榛原病院まで来て立ち会って欲しいということでしたのですべてを放ったらかしにして奥方と病院に向かいました。
前回の私のパターンでいけばレントゲンそしてCT、そののち診断という流れは確定的。
昼過ぎまでただ病院の待合室のベンチをハシゴしました。
奥方にはその「待合地獄」と物品搬出入の往来を何度も何度もやってもらっていますがさすがにボヤキの声をあげていました。
父-母-叔母をそれぞれ複数回のうえ、先日の私に今回の叔母。
「誰もかれも血縁ナシ」を主張していました。
たまたまの持ち回りでこれも一つの縁なのですが、奥方の場合は私のやるべきことを肩代わりしてもらっているワケです。
「それを言っちゃあおしめぇよ・・・」ではありますが、その手の環境にはない人たちも彼女の友人の中にも多くいて一言「いいなぁ~」とため息を吐いていました。
たまたま、たまたまなんですよ。
私も昨日のブログの如く「親」ならぬ「叔母を捨ててもいいですか」にはなれません。私が先・・・ということもありますが「その時」まで何とか付き合わせていただきます。
ストレッチャーに寝ている叔母は「すまないねぇ」と言ってくれるだけマシ。おしゃべりできない方もたくさんいますからね。また、この期に及んで「家に帰る」と罵倒されるかと戦々恐々でもありましたが、さすがに痛みには勝てなかったようでとても神妙でした。
二人でもって一日棒に振ったわけでしたがこの件でいよいよ叔母の独り暮らしはもうできない、させられないの確信を得たワケで叔母の方もそろそろ諦めモードに入っているようでもありました。
トイレで転倒して呼び付けたのはナースコール。
自宅に独りでいてはそういうワケにはいきませんからね。
尚、骨折はありませんでしたが、「第三腰椎の変形」が認められるとのことで当人の主張する痛みと合致するとのこと。
ということで新調するコルセットを装着し施設で様子見しつつ、2週間後のレントゲンで確認するとのこと。
コルセット代金の3万円は1割負担とのことでした。あとから「返ってきます」ということで一安心。
おカネの出費もありますが突然呼ばれての「待合地獄」は結構にしんどいものがあります。毎週それをやらされることになりましたがそのようなことはそうはナイでしょう。いずれにせよ奥方には頭があがりません。
母の腕の骨折の際もそうでしたが前回の叔母の大腿骨、私のいろいろ、そして今回も同じ整形外科の先生(院長先生)でした。
先生がたまたまCTの待合に現れたので先週私がお世話になった旨を伝えると「見た事があるがたくさんいて生憎思い出せない・・・」と言ったあと、「ああ!! 左足を痛がっていてスグいなくなっちゃった方ね」と。
これは・・・と思い私の今の両肩の筋肉の痛みについて聞くと「骨折はなく、いわゆる鞭打ち症みたいなもの」と。
図々しくも「ついで」とはいいながら思わぬところで「診療」をしていただきました。
立ち話診察・・・コレも普通はナイことでしょう。
さて、清浄光寺(遊行寺)の駐車場に大鋸の坂道から入るとスグ、目に飛び込んでくる石塔が「藤沢敵御方供養塔」です。
敵御方(てきみかた)を言う争乱とは上杉禅秀の乱。
応仁文明の乱前夜ともいえる応永年間(1400年代前期)に起こった関東の覇権争いですね。
南無阿弥陀佛
応永二十三年十月六日より兵乱 同二十四年に至る。
在々所々において 敵御方箭刀水火のために落命せる人畜の亡魂 皆悉く浄土に往生せしめん故なり
この塔婆の前を通る僧も俗人も十念あるべき者なり。
応永二十五年十月六日
一説にこの碑を建てたのが鎌倉公方足利持氏だといいます。
策謀渦巻くこの時代であり、敵方別れて各家の存亡をかけた死ぬか生きるかの戦いが終わり生き延びた者が「すべての者は皆同じに」という精神になれるものかわかりませんが。
奇特な事でそうあったとしたら天晴れです。
ちなみに足利持氏の三女が遠州に疎開して没した「三の姫さま」です。
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