沼津千本首塚 首塚だからといって首だけじゃない

先般逝去された方とかつてお話したこと。

大正末期に拙寺檀家さんの家に生まれた方で8人きょうだいの3人の男子の末っ子。

 

「親に邪険にされて養子に出された」ことを愚痴っていたことを思い出します。幼き頃の辛かった思い出話を聞きました。

自分だけ小遣いをもらえず、当時拙寺にて手伝いをして何がしかの小銭を貰っていたとも。

 

養子に入った家は奥さんの母親(?)が出た家のようで両養子としてその家の業を継いだとのこと。

七年ほど前に奥さんが亡くなった際、流れでその家の菩提寺で葬儀を行ったものの「南無阿弥陀仏」が忘れられなかったのか、ある気づきを得たようで拙寺に納骨を・・・と参られたのでした。

たまたま奥さんの生まれた家が門徒寺ということもあったのでしょうがその方の子供の頃の寺での思い出がその決断となったということなのでしょう。

 

子供の頃の思い出が齢を重ねたある機会の判断を左右させるほど重大な方向性を持つことは意外と思いましたがやはり「邪険にされた」とはいえ先に往った親への思いが少なからずあったのではないでしょうか。

そこには自分を養子に出し、悲しく寂しい思いをさせた親への「恕」というものが。

当人は生前、私に「自分が亡くなったら元の姓に戻して葬儀を・・・」と言い残していましたね。

ただしその件ご家族とのお話の中「それはムリ」ということで故人にはご了見いただきました。

私と故人との秘密ですが過去帳には記させていただきます。

 

一昔前の法事といえば本堂、境内は子供たちの参加で溢れていたよう。

当家13代目の私の爺さまはこどもたちに合わせたお説教をしたことを聞いていますが、今の法事には小中高の子供は殆ど見かけなくなりました。

学習塾にクラブ活動等々で法事の出席は親のみというパターンが多くなったということです。そもそも子供がいないというのも現状。

よって今の子供たちの「お寺のイメージ」というものは極端に少なくなってしまったのではないでしょうか。

寺での「体験」そのものが無くなったということです。

考える場として何かを提供できない歯がゆさというものと大いなる力量不足を感じますが、学習塾やクラブ活動の必要性はあるとは思うものの、仏教的理性、徳、反省、感謝の心を違う観点から育む事は人間成就のうえでむしろ不可欠と感じますがね。

 

さて、先日の小和田先生の講演(「戦国の女性たちと城」)の中で触れられていた今一つの女性活躍の場。それが戦闘参加の推測でした。

「千本松原の戦い」による戦没者の墓とみられる首塚についてです。

 

墓と言っても一緒くたに遺体を放り込んだような塚だったのでしょうがその墓で発掘された遺骨調査の結果の男女比ですが男5に女3だったということ。

同時にこの塚は戦による戦闘員に近い者たちの墓であったというのが調査後の一つの結論であっていずれの被葬者も若者ばかり、熟年と幼少者はいなかったとのこと。

そこに女性戦闘員の存在、戦国の強い女性が示唆されているのでは・・・というところ。

 

信長による有岡城の虐殺の場合は無抵抗の女子供を片っ端から殺していますのでもしそういう処刑的なものであればこういった青年層ばかりとはならなかったはず。そこに「戦闘員が主体である」という結論が生まれたのでした。

 

この塚が作られた経緯は明治三十三1900年の暴風雨が去った翌朝に千本松林で発見されたもので、倒れた松の根元に露出した頭蓋骨がゴロゴロと出て来たことから。

 

古人骨の専門家、人類学者の鈴木尚氏の調査論考が沼津市のサイトにさらっと紹介されていますのでそちらをどうぞ。

そして「沼津市千本浜の首塚と関東地方の中世日本人頭骨」

なるタイトルの論考を。

 

現状は海岸線に並行して走る千本松原通に旧東海道から直交しようと進んだ辻にそれらを集めて埋葬した石碑が建っています 

(場所はこちら)。

 

位置的には狩野川という天然の要害周辺ということになりますが付近には三枚橋城戸倉城(またはこちら)そして興国寺城(またはこちら)がありますが特にこの湾曲した海岸線、通称千本松原といえば天正七年の武田水軍VS北条水軍から始まった地上戦が繰り広げられた地。

ここで大規模な戦闘が行われたことはわかりますが空しくも双方とも滅亡しているということは何かと寂しい。

 

無意味な戦争を繰り広げ、消耗し結局は絶滅戦。

人間の愚かさを見る思いですが同じようなことを今、国レベルでやっていそうな感じもしないわけでもありませんね。

 

尚、「首塚」とはいうものの首だけではなく、他の部位は相当数頭骨含めて波に洗われてしまったというのが通説。

現状105人分の頭骨部位が出ていますが実際はその3倍はあったかも・・・ともいわれています。