驚きと発見は日々あるものですが、先日の「そうだったの!」と口を開けてしまった件。
拙寺九代住職祐厳の娘「今井こと」が川崎の笠原家七代笠原八郎左衛門に嫁いで文化十四1817年に亡くなったことを以前記しましたが年齢は七十一歳だったことがわかりました。
笠原家過去帳を開いて判明したのですが拙寺の過去帳にはその記載がありませんでしたので。
年齢については現代のようにその多い少ないについてあまりこだわらない時代でしたし、寺の方が「無生法忍」なる仏法に関わる「忍」について触れるにあたってその件に執着するのはあまり具合がよくないでしょうからね。
尚、「忍」の感覚は「認」であって「言」が付いていませんが「たしかに承認させていただく」の意となります。
ただし当流においてはそれも「他力」であることは言うまでもないことですね。
その川崎笠原家の母上さまが体調不調とのことでお会いしたのが先々週の事。
それが最期のご挨拶となったわけですがその際はノー天気にも風呂用の薪に使っていただくための材木を当家に持ち込んだ際のことでした。
汚らしいツナギの躰でしたが「食べ物が口を通らなくなった」という現実を知らされ案内されるまま寝室まで。
これまでの炬燵にいらっしゃる姿とは違い介護用ベットに休まるまま二言三言会話を重ねました。
枕許に差された数輪の梅の姿を見て、「次は桜の季節、温かい春が待ち遠しい・・・」などと自分でも「何言ってるんだろ・・・」と思いつつ食が戻ることを期待しながら失礼させていただきました。
そののち訃報の報せがあったのでしたがその「温かい春」とは桜の咲くお浄土となってしまったのでした。
年配の終末期の方に向かって「頑張って」などとは言えませんし、そんなときは言葉を選んで、支離滅裂な会話になってしまいます。
故人の生まれは「大正十五年」と最初に聞きましたがスグにまた違う縁者から「昭和元年だよね・・・」などと言われたため自分のイメージだけでその場で推論してしまいました。
故人の誕生日は1926年の12月24日でしたからそれなら「昭和」だろうというのが私のお頭の貧弱さ。
要は大正天皇→昭和天皇の時期を考えて年末のその時期ならばまずは「昭和」を思ったのでした。
調べるとびっくり、大正天皇が亡くなったのは1926年の12月25日でした。ということならば大正十五年生まれということで間違いないでしょう。過去帳はずっと元号が使用されていますので・・・どこかの代でいずれ西暦に統一してもらってかまわないと思っています。
それにしてもまたも「大正」生まれという奇特な年齢の方が亡くなってしまいました。
さて昨日のウソのような暖かい一日は今年の梅の季節は「おしまい」と境内の紅白がその季節の主役交代を告げているようでもありました。
⑤はシダレウメが咲き始めたところですがその下にある「コマツオトメザクラ」という品種の花芽が膨らみだしたところ。
既に色づいています。
墓地のヤマザクラはまだまだの様ですが。
暖かくなれば生き物たち、特に人間にとって体力維持がラクになりましょう。
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