有岡城の大量殺戮 信長公記につづきフロイスの記述 

東京のコロナ陽性患者数が下降傾向となって(昨日556人)「効果がでている」なる声が上がりだしましたが、ここ数日の数字を見ただけで「そんな軽口いいの?」というのが率直な感じ。

まだ浮かれるのは早いですよね。

まだまだ締めて行かなくてはならない時にその手のコメントは不要。若い人たちに「なんだ大丈夫じゃん・・・」の気持ちが醸成されてしまいます。

あの世代に緩みを生じさせたら元も子もないですからね。

慎重なるスタンスが必要でリップサービスは無意味。

そもそも東京の死者は過去最高(23名)を数えています。

人が死ぬということの重大性をもっと感じて欲しいのです。

「命と暮らしを守る」という総理殿のコメントをよく耳にしますが、その昨日の23人の死(東京だけですが)はどうしてくれるんだよ‼ 漫然と数字だけ並べられてもね。

 

さて、先日は有岡城陥落とその後の信長による仕置きについて信長公記から記しましたが、その件フロイスの日本史にもありますので転記させていただきます。

内容は殆ど同じですが宣教師が見た(聞き書きでしょうが)その信長の残虐性について少々詳しく記されています。

ハッキリ言ってやりすぎ、異常です。

信長がいなければ・・・のタラレバですが、今の日本の人口に相当の影響を与えたのでは? そのくらい抹殺したということです。

 

第五〇章(第二部二八章)

信長が荒木一族に科した厳罰のこと

 

「この頃、信長は荒木と大坂(本願寺)が自分に敵対して同盟を結び、彼らに好意をよせている山口の国主(毛利輝元)と結託していたので、彼らに対して激しい戦いを展開していた。

 

信長は彼らを長期にわたって包囲していたが、これに対して抵抗しえず、またいかに懇願しても信長が自分を許してくれないことを見た荒木は、この年の初め頃(・・・実際は天正七1579  9月2日)、

密かに家臣たちにも気づかれることなく逃亡することを考え、彼の在丘(有岡)城を見捨てて大坂に身を寄せた。

 

彼はその秘密をただ数名の親族と武将に打ち明け、彼らに城の世話を委ねた。しかるに彼らは、荒木が戦意を喪失し、信長に対して抵抗する力がないことが判ったので必要に迫られて彼(信長)と協議し始めた。

彼らはそうすることによって自分たちと妻子の生命を救い、荒木と彼の万事について抱いていた信長の激しい憤怒と憎悪から免れ得ると思っていたのである。

信長はこうしたことに狡猾であったので、懸命に処置し、彼らは城もろとも彼に投降するに至った。

 

信長はそれらを掌中に収めると、荒木に対して憤懣と不興を抑制しかねたので有岡城にいる者全員を相手に、未曽有の残虐さをもって、その怒りと深い憎しみを満たさせることを決意した。

まず彼は荒木の妻はじめ、二人の娘、兄弟、彼女の兄弟姉妹、さらにすべての従兄弟たち、甥たち、近親らすべて三十六名を捕らえることを命じて、都に送った。彼らは同所で死刑の判決を記した板を立てた荷車に乗せられて市の全部のおもだった通りを連行されたが、それは死よりも甚だしい恥辱と不面目に価するものであった。その中には非常に上品な子供たちや高貴な侍、婦人たちも混じっていた。

彼らは処刑されることになっていた法華宗の大寺院の近くで車から降ろされた。すでに同寺の管長が袈裟に僧衣をまとって現れることが決まっていた。彼は犠牲者たちに阿弥陀の名を十度称えさせた後(?)、彼らに対し、罪と罰を赦すある種の儀式を挙行し言葉を述べた。

津の国の領主の夫人で「だし」と呼ぶ荒木の妻は、天性の美貌と貞淑さの持主でつねに顔に大いなる安らぎを示していたが、車から降りる前に頭上の振り乱れていた髪を結び、身だしなみをより保つため腰帯を締め、時の習慣に従い幾重にも重ねた高価な衣装を整えた。

永遠の懲罰も来世の栄光も知らぬ異教徒として、即座にいくつかの詩句作って朗吟したが、その意味は次のようであった。


『まもなくなくなろうであろうこの身の生命が失せることは悲しまないが、ただ母への思慕と愛が死ぬことを妨げる』(母への→母としての でしょう)。

かくて彼女および他のすべての者はそこで斬首された。

 

同年の終わり12月13日に荒木の城の貴婦人ら120名が捕らえられ、最後の決定的判決を今か今かと待っていた。その親族や友人たちは深い苦悩に包まれながら、なんとか彼女らを救う方法はないものかと哀訴しながら、ここかしこを歩き回った。

だが彼らの努力は失敗に終わり彼女らを救うことが不可能だとわかると彼らの苦悩は涙とつきせぬ慟哭に変わった。

彼女らも死刑に処せられることを知ると手紙によって親族らに別れを告げ、仏僧たちに執り成しを乞い、彼らに自分たちの財貨から多額の施与を行った。

 

我ら(イエズス会)の許で、死に際して聖フランシスコの僧衣を着るように日本人もそれをなすだけの余裕のある者は彼らがそれまで尊敬していた仏の生涯と秘儀をいっぱい書き込んだ紙の衣服(経帷子)を着けるのが常である。

仏僧たちはこの欺瞞的な習慣(伴天連から見た)を利用してこれらを漢字で書きその衣と文字の功徳による来世の救いを彼らに約束し、それによって彼らは豊富な施与を受け、獲得するのである(これは対異教徒習俗への彼らの見解)。

その婦人たちはすべてこの下着を着、その上に所持しているもっとも高価で最良の絹衣を装っていた。

 

彼女らは、大声で泣き、悲しみながら従った親族、友人、男女の召使いたちに伴われて、それまで住んでいた城から一里半の尼崎というまちの近く七松(ナナツマツ-今も地名としてあります)と称する地に連れて行かれた。

そして同所の平地で全員120名は磔刑に処せられた。

 

これらの婦人の幾人かには幼児があったが、母親をいっそう苦しめるために幼児たちを彼女らの胸に縛り付け、ともに十字架に懸けた。その一人一人があげる叫び声ははるか遠方からも聞き分けられ、親族友人だけでなく見知らぬ人々にもこのような恐ろしく残虐な光景はあまりにも嘆かわしく思われた。

一同が続いて十字架に磔にされた後、刑吏たちは下から、あるいは銃弾をもって、または槍で彼女らを殺した。

その一人一人を処刑していくたびに彼女らといっしょに来ていた親族、友人、知人たちの慟哭と呻きと叫び声が起こり、この恐怖はそこに居合わせた人々の心に強く焼き付き、刻み込まれ、処刑において示されたこの光景に肝を潰した人々は幾日も放心状態で過ごしたのであった。

 

この第二の処刑は苛酷で前代未聞のものでありこの場合、全然罪なき人々に対して無慈悲な残酷さであったが、第三の処刑はさらに比較にならぬほど残酷で非人道的、かつ恐怖すべきものであった。

 

四つの平屋が作られ、それに514名が分けて入れられた。それらのうち380名は婦人で134名が男たち(「侍の妻子どもにつけ置きたる若党なり」~総見記)であった。そこで大量の乾燥した草、柴、木材が集められ、これに放火して彼ら全員を生きたまま焚殺した。

彼らが発する悲鳴、聞こえてくる叫喚、彼らが受けているこの残忍きわまる苦しみの混乱ぶりは、かの地を恐怖で掩った。

こうして多数の無実の人々が、荒木の悪意と鉄よりも頑固な心のため、その忘恩と悪行の報いとして、荒木のみが受けるに価する罰を受けることになったのである。」

以上フロイス日本史より。

 

画像①軍行橋は猪名川に架かる北伊丹駅近くの橋。近くに空港があります(場所はこちら)。

伊丹城(有岡城)はそちらから南、伊丹駅前になります。

なぜか大河ドラマの勘兵衛にあやかりたいの気持ちが前面に出ているようで「なんだかなぁ~」。

やはり伊丹といえば伊丹氏、有岡城と変わって荒木村重でなくてはね。

戦いに負けてボロボロにされた武将はヒーローになり得ないのでしょうか。

やはり残念なことです。