昨晩見たニュースでは南アとブラジルで出た新コロのうち「免疫を回避し再感染の可能性」のある変異株が出たといいます。
集団免疫の概念をぶっ壊すもので、下手すれば2度3度とコロナに罹る可能性があるとのこと。
また変異した株とこれまでの新コロといっぺんに罹った人の例があるといいます。
「オリンピックやりたいおばけ」が永田町付近に跋扈していることはわかっていますが、そういう連中がノー天気に「そろそろいいだろ」などと頃合いを見て入国を再開したりしないか本当に心配になります。
先日は拙寺より「100m」のところまで感染者が出て「迫っている」感を記しました。
昨日は今年初めての回忌法要がありましたがその終わりに聞いた話はまさに仰天、それは「近隣」どころではないくらいのお宅でした。
知らなかったのは私だけということで・・・「みんな知ってるよ・・・」でした。
噂話のネタになるのは辛いかも。まぁ私は開き直りますがね。
大河ドラマはいよいよラスト前。
冒頭に信長がご機嫌の様子で森蘭丸に持ち出させて披露した塩漬け壺の中身が波多野兄弟の首でした。
ここでも明智光秀は面目を潰されたのでしたが、その波多野の件、昨日引っ張り出した「信長公記」の記述の中に村重の言葉としてありましたね。
「磔にされし(丹波の)波多野兄弟がごとく易々とは終わらぬ~」でした。
ところが現実は波多野どころではない空前絶後の惨劇となったわけで。
そして「撮影協力」と紹介されていたのが「真宗大谷派」。
番組を普通以上に食い入ってみていれば「なーむー」の称名と顕如の五條袈裟姿であっという間にお終い。
まぁ以前の大河ドラマでは石山本願寺の本尊に釈迦如来坐像を使用して顰蹙を買っただけに念入りに指導を仰いだのでしょう(この件何かのたびに思い出したように記していますがこれはあまりにも鮮烈、あり得ないことと感じている忘れられない出来事でした)。
特に袈裟の色身ですがあの色を間違えたら怒られるでしょうね。ちなみに下っ端坊主の私はあの朱系は着けられない色。
墨衣に赤い五條は私好みなのですが。
まぁ天台座主覚恕の衣袋や描き方からすれば地味ですしぜんぜんマシでした。
信長公記の現代語転記は天正七年の項、一昨日の「10月15日、伊丹で滝川一益の調略が奏功」~「11月19日」そして昨日ブログの惨殺シーンを記しましたが実はその前の9月2日に「荒木伊丹城・妻子捨て忍び出づるの事」として
「荒木村重は五、六人の供のみを連れて伊丹有岡城を密かに脱出し、尼崎へ移った。」
とあります。
この件を信長公記ではしきりに荒木村重とは「妻子を捨てて自分だけ生き残ろうとした卑劣漢」として描こうとしていますがまぁそれを100%受け入れたとしても残った女子供を皆殺しにする理由にはなりませんね。
今も、荒木が我が身の命欲しさに城を脱出した(敵前逃亡)ということが通説になっているようですが、現代であってもそれは常識的に見てあり得ないことだと思いますね。
人情的に妻子を置いて逃げることは考えられない話ですし、何より世間の評価、名誉は一大事、特にその名を知られたものとなれば現代人よりも自身へのコントロール力や道徳心はあったと感じられる時代だったからです。今の下衆な政治屋とは違います。
そもそも戦いに負けたとしても城を明け渡し出家、最悪のところ自身が腹を斬るくらいで家族は赦されるという暗黙の了解があったわけで、その点は村重の読み違えがあったことは確かですが、その責を村重一人に背負わせてしまうことはできません。
そもそも「助ける」といいながらなかなか出兵しようとしないもたもた、いらいらの毛利勢を自分の動きで何とかしたいという気持ちが時間とともに増幅し「籠城し続けて待ちぼうけ」するよりも「動きたい」「自ら直談判、交渉したい」というのが村重の本当の気持ちだったのでは?
毛利と本願寺の大軍を引き連れて籠城軍と織田方を挟み撃ちにする、それを描いていたはずです。
毛利に振られて結果的に見殺しにされたというのが伊丹有岡の惨劇でした。
画像は有岡城総構の北端、「岸の砦」現猪名野神社(場所はこちら)。
神社と改められたのでうまく遺されたのでしょう。
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