有岡城総構 上臈塚砦 女子供の大量殺りく 墨染寺

昨晩は「沙汰day night 三昧」の日。

今年から始めた(各月最終土曜日の夕刻)「念仏メディテーション」ですが、たまたまその日は14時からの法務があってその終了後の用意にバタバタしてしまいました。

まぁ何とかスタートを切ることができました。

世話人・総代に婦人部の皆さんが四人と婦人部で声掛けしてお越しいただいた方が一名、初めて来られた方が1名でした。

 

一旦、会を終了してから拙寺の関係者にその意図と「涵養」を主眼とした三昧トレーニングについてお知らせするため居残りをお願いしましたが、全員が残られて仏教的な考え、当流真宗系思考との相違、心理学、脳科学の面から私の知りえたその効用について紹介させていただきました。

お寺こそがそれを進める場であることも・・・

 

当方としても初めて来られた方について興味が沸くところですが、どなたが来られても出入り自由を掲げて催していますのでまさか「あなたはどちらさん?」などと聞けるはずもなく。

おそらく最後までおつきあいしていただいたことから、その道のプロか賛同者であったかと。

いずれにせよ、ゼロスタートも覚悟していましたので本当にありがたいことだと思います。

余裕が出てきたらその画像と雰囲気を人物ナシで紹介できればと思います。

 

さて、昨日の続きです。

伊丹有岡城攻めといえば歴史的にも相当酷い信長の無慈悲で知られていますが信長公記には「これでもか」という具合に詳細に記されています。

昨日信長公記巻十二の天正七年の有岡城攻城戦について2項 

をネット上から転記させていただきましたが、その次の「だし御成敗」を見ると裏切りだの主君殺しだのと罵声を浴びせられた明智光秀ですがいよいよ「よくやってくれた」と思うばかりです。

真宗門徒としても伊勢長嶋、越前、加賀そして本願寺攻めと信長には恨み骨髄ですからね。

 

比叡山を焼き討ちした、門徒勢を騙し討ちにして火をかけて皆殺しにした・・・と漠然に聞く信長の所業色々ですが、この伊丹有岡城の惨たらしさは信長公記の記述ほど超絶悲哀を見る人に与えるものはありませんね。

昨日の記述と重なる所ありますが大河ドラマでも信長が吼えていた通り女子供を容赦なく捕縛して処刑しています。

以下も続けてコピペさせていただきました。少々長いですが・・・

 

 

18、荒木党刑戮  伊丹城相果だし御成敗の事

 

「今度の謀叛において荒木村重が尼崎・花隈の両城を明け渡さず歴々の重臣たちの妻子・兄弟を見捨ててわが身一人のみ助かろうとするさまは、まことに前代未聞の始末というほかなかった。

そのような村重の動向を知った数多の妻子たちは、これは夢かうつつかと嘆き惑った。恩愛の者との別れを感じての悲嘆ぶりは、もはや例えようもないものであった。

この先の運命を予想して嘆く彼女たちの中には幼子を抱く者もあれば、懐妊している者もあったが、それらが煩悶して声も惜しまず泣き悲しむ有様は、まったく目も当てられぬものであった。彼女らを拘禁する猛き武士たちもさすがに岩木ではなく、この様子に涙を流さぬ者はなかった。

信長公も彼女たちの様子を聞き、不憫さを禁じ得なかった。

しかし奸人を懲らしめるため、あえて処刑を決断し山崎で指示を下していったのだった。

信長公は荒木一類の処刑を都で行うことを命じ、人質たちを12月12日の晩刻から夜もすがら京へ上らせた。そして妙顕寺に広牢を構えて三十余人の女達を押し込め、また吹田村氏・伯々部左兵衛・荒木久左衛門の息子自念の三名を村井貞勝の屋敷で入牢させた。

さらに摂津国では分限の侍の妻子を集めて磔にかけるよう命じ滝川一益・蜂屋頼隆・丹羽長秀の三名にその執行を申し付けたのだった。

そのような中、荒木五郎右衛門という者が「日頃夫婦の仲はさほど親しくなかれども、かと申して妻女を捨て置くことは本意にあらず」として明智光秀のもとへ頼み入り、女房の命に代わらんと様々に嘆願してきた。しかし信長公はこれを許さず、結局夫婦は共々に成敗されることとされてしまった。まことに哀れな結末であり、是非なき次第というほかなかった。

かくして処刑の準備は進められていった。人質たちは思い思いに最期の文をしたため、親子兄弟へ向け涙とともに書き送ったのだった。

そして12月13日辰の刻に尼崎近くの七松という地で百二十二人が磔にかけられることとなり、刑場へ向け人質たちが引き出されていった。

さすがに歴々の上臈衆であり、いずれも美々しき衣装を身にまとい、すでに命叶わぬを悟って美しき姿で静かに居並んでいた。 やがて、その身を荒々しき武士たちが引き掴み、あるいは母親に抱かせて台に引き上げ突き殺し、あるいは鉄砲をもってひしひしと撃ち殺し、あるいは槍と長刀で刺殺して処刑していった。

 

百二十二人の女房衆が一度に上げる悲鳴は天にも響くばかりであり、見る人は目もくらみ心も消えて涙を抑えきれなかった。処刑の様子を目にした者は、二十日三十日の間はその有様が瞳に焼きついて忘れられなかったということであった。

この他にも端侍の妻子とその付々の女三百八十八人と、歴々の女房衆に付いていた若党以下の男百二十四人の合わせて五百十余人が矢部家定検使のもとで家四軒に押し込められ、周囲に乾き草を積んで焼き殺された。

男女は風向きに従って魚の群れのように上へ下へと並び動き、灼熱の炎にむせび、躍り上がり跳ね飛び、その悲鳴は煙とともに空へと響きわたった。

その有様は地獄の獄卒の責めもかくやと思わせるもので、みな肝魂を失い、二目と見ようとする者がなかった。その哀れさは、もはや申すこともできないほどであった。

摂津での処刑は、そうして終わった。

処刑ののち信長公は伊丹有岡城の警固を小姓衆に二十日交替で命じ、12月14日になって山崎から京都妙覚寺に移った。

そして12月16日に荒木一類の者達の処刑を京で行うことを申し渡したのだった。 ここに至るまでの物語の哀れさは、申し様もないものであった。

前年10月下旬に村重が天魔の導きによって謀叛を起こすと、信長公は11月3日に上洛して同9日には鎮定のための出馬をし、天神馬場に砦を構えた。しかし村重に与した高槻・茨木の両城は堅城であり、このため織田勢も簡単には攻められぬと村重もその配下達も考えていた。

ところが、村重がそうしてに杖にも柱にもと頼りにしていた茨木城主の中川清秀と高槻城主の高山右近は、意外にも信長公へ帰順してしまったのだった。村重はそれでもさほどには逼迫を感じなかったが、そのうちに織田勢は小屋野まで陣を寄せ、伊丹有岡城を隙間なく囲む陣を築いてしまった。

12月1日の夜になると、今度は安部二右衛門が変心して大坂・尼崎から伊丹への通路を遮断した。これにより伊丹は上下とも大いに苦しんだ。

しかし安芸の毛利氏から「正月15日過ぎには必ず出馬して西宮・越水近辺に本営を構え、吉川・小早川・宇喜多を尼崎に置き、雑賀衆と大坂勢に先手をさせて両所から攻めかかる。そうして織田勢の陣を追い払い荒木殿を解放する。このこと案のうちである」との旨がいかにも真実らしく誓紙をもって伝えられてきており、荒木勢は神仏へ祈りをかけてこの誓紙にすがったのだった。

一方信長公は2月18日に上洛し、3月5日になって再度の出馬をして池田に陣を構えた。また中将信忠殿も出陣して加茂岸の敵勢近くに付城を築き、伊丹有岡城の四方に堀をうがち、堅固な塀と柵を二重三重に構えていった。攻囲の輪に閉じ込められた有岡の城は、まさに籠の中の鳥にほかならなかった。

荒木方は行末の運命を考えて憂いを深くしたが、それでも春夏のうちに毛利氏が出勢すれば一筋の道が開けるに相違なし、と信じてひたすら待った。彼らは「いかなる森林でも、春になれば花も咲き出でるものだ。さればこの地も、いずれ百花開いて国静まろう」と毛利勢を待ち焦がれたものであったが、春が暮れて楊梅・桃李の花が散り、梢茂みが模様を変え、卯の花が咲いて郭公が飛来し、五月雨の雨が物思いを募らせる時季になっても、毛利勢が来援することはなかった。

そのように月日が過ぎゆく間に城兵たちは各所の戦闘によって親を討たれ、子に死に遅れ、どの者も一層嘆きを深くしていったのだった。

窮した荒木方は、「出陣の件はいかに」と中国路へ重ねて使者を送った。これに対し毛利勢からは「人馬の糧食も調ったので、7月中には出勢する」との返答が返ってきたのだが、結局7月中も動きはなく、8月になって今度は「国許に問題が起きた」と通達されてきたのだった。 すでに木々も葉を落とし、森も次第に枯木を増す時節となっていた。城兵はもはや力を失い、戦意も無くしていた。この様子に村重は、「磔にされし波多野兄弟がごとく易々とは終わらぬ。兵粮ことごとく尽きる前に城手の人数を出して小屋野・塚口へ向け一戦させ、その間に伊丹に控える三千の軍勢を三段に備え、女子供を守りつつ退くことに何の不都合もない。また仮にその策が叶わなかったときは、尼崎・花隈の城を明け渡して助命されればよい」といって城内を励ました。

ところが9月2日の夜になり、当の村重が供の者五・六人のみを連れて伊丹有岡城を忍び出で、尼崎に移ってしまった。

この事実に城中はいよいよ落胆し、いずれの者も前途を案じて顔色を暗くしたのだった。

そのような中の10月15日、足軽大将の星野・山脇・隠岐の三名が謀叛を起こした。荒木方では日頃は物頭級の者たちの妻子を人質として夜間城中に留め置くことにしていたのだが、運の尽きた証か、この日は払暁に人質たちを各砦へ帰してしまった。するとこれを機会とみた三名らが謀叛に走り、上臈塚の砦へ織田勢を引き入れたのだった。

砦へ乱入した織田勢は敵勢数多を斬り捨て、伊丹の町を手中に収め、城と町との間にあった侍屋敷に火をかけて城を裸城にした。さらに信長公は岸の砦を開いて多田の館まで退いていた渡辺勘大夫を殺害し、また鵯塚の砦に籠っていた野村丹後守も降伏したものの、赦免することなく腹を切らせたのだった。

もはや有岡の落城は定まった。この状況を見た明智光秀は尼崎・花隈の開城と引きかえに城内の者達を助命することを進言して許され、信長公へ感謝しつつその旨を荒木方へ申し送った。荒木方でも他に一途の道も残されておらず、「妻子を人質に残し置いた上で尼崎に入り、荒木に理を申し聞かせて両城を進上させ申す。

もし村重同意せざるときは、それがしらが御人数を引き受けて先陣をつかまつり、即時に城を落として御覧に入れる」とこの条件を承知した。

そして女達の警固に伯々部左兵衛・吹田村氏・池田和泉を残し、11月19日他の老臣らが尼崎の村重のもとへ説得に向かったのだった。 しかし城に残った三名のうち、このような事態となったことを悲観した池田和泉は鉄砲に弾を込め、おのれの頭を撃って果ててしまった。 世の中に、命ほど情を失わせるものはなかった。城に残された者達の元へはほどなくして、尼崎へ向かった歴々の侍たちが日頃の強弁もむなしく妻子・兄弟を捨て、我が身一つ助かるべく姿をくらましたということが伝わってきたのだった。

残された人質たちはもはや助かる道もないことを覚った。そしてこの上は仏道・導師にすがろうと考え、寺々の僧へ思い思いに頼み入って数珠・経帷子を授かり、戒を守りながら残された時を過ごしたのだった。布施には金銀を贈る人もあれば、着ていた衣装を贈る人もあった。人質たちにとって、かつて着た綾羅錦繍よりも経帷子のほうが今となってはありがたかった。

世にありし頃は見聞きするのも忌まわしかった経帷子と戒名が、今は頼もしく感じられていた。千年万年までもと契った夫婦・親子・兄弟の仲を断たれ、図らずも都で諸人を前に恥をさらすこととなった人質たちであったが、村重の妻だしらはこれ以上村重を恨まず、前世の因業の結果こうなったのだとばかりに、歌のみを多く詠み残していったのだった。

それらの歌は

 

だし作

 きゆる身は おしむべきにも なき物を 

            母のおもひぞ さはりとはなる

 残しをく そのみどり子の 心こそ

           おもひやられて かなしかりけり

 木末より あだにちりにし 桜花

           さかりもなくて あらしこそふけ

 みがくべき 心の月の くもらねば

           ひかりとともに にしへこそ行け

 

 

だし付きの局・京殿おちい作

 世の中の うきまよひをば かき捨てて

           弥陀のちかひに あふぞうれしき

 

村重の娘隼人女房作

 露の身の 消え残りても 何かせん

           南無阿みだ仏に たすかりぞする

 

村重の娘おほて作

 もえ出づる 花は二たび さかめやと

           たのみをかけて あり明の月

 歎くべき 弥陀のをしへの ちかひこそ 

           ひかりとともに にしへとぞ行

 

さい作

 先だちし このみか露も おしからじ

           母のおもひぞ さはりとはなる

 

以上のごとくで、いずれも思い思いに文に書き残したものであった。 そして、処刑の日がやってきた。

12月16日辰の刻、人質たちは車一両に二人ずつ乗せられて洛中を引かれていった。

 

その順番は

 

一番  歳二十ばかり 吹田村氏 村重の弟

    歳十七   野村丹後後家  村重の妹

 

二番  歳十五 隼人女房  村重の娘でこのとき懐妊中

    歳二一 だし

三番    歳十三 だご  村重の娘で隼人女房妹

          歳十六 吹田女房  吹田因幡の娘

四番    歳二一 渡辺四郎  荒木志摩守の甥で、渡辺勘大夫の

                      娘に縁組して養子に入る

          歳十九 荒木新丞  渡辺四郎の弟

五番    歳三五 伊丹安大夫女房 伊丹源内宗祭の娘で子は八歳 

          歳十七 北河原与作女房  瓦林越後の娘

六番    歳十八 荒木与兵衛女房  村田因幡の娘

          歳二八 池田和泉女房

七番    歳十三 荒木越中女房  だしの妹

          歳十五 牧左兵衛  だしの妹

八番    歳五十ばかり 伯々部左兵衛

          歳十四 自念 荒木久左衛門の息子

 

以上であり、この他にも車三両に子供七・八人ずつが乗せられ引かれていた。

車は洛中を上京一条辻から室町通りまでを引かれてゆき、刑場の六条河原に行き着いた。

刑場には奉行を命じられた越前衆の不破・前田・佐々・原・金森の五名のほか、諸役人・触口・雑色や青屋・河原者ら数百人が集まり、甲冑を身に着け、抜き身の太刀・長刀を持ち、弓には矢をさしはさんで厳重に周囲の警護を行っていた。

 

女房達はみな経帷子を身にまとい、その上に色よき小袖を着て出立ちを美しくしていた。いずれも歴々の女房衆であり、すでに命免れえぬを悟って取り乱すことなく神妙な態度を保っていた。 その中でも、村重の妻だしという者は聞こえ高き美人であった。彼女はかつて衆目にさらされることもなかった身であったが、このたびは乱世の習いにより、さも荒々しき雑色の手で小肘をつかまれて車に引き乗せられた。

しかし最期の時になると、だしは車を降りざまに帯を締め直し、髪を高々と結い直し、自ら小袖の襟をくつろげ、まことに尋常に首を打たれたのだった。

このだしの例を始めとして、女房たちはいずれも潔い最期を遂げていった。しかしながら下女や婢者はそうも行かず、人目をはばからず悶え悲しみ、泣き叫ぶさまは哀れとしか言いようがなかった。

荒木久左衛門息子の自念十四歳と伊丹安大夫の倅八歳の二名は、若年ながらおとなしく処刑の場に臨んだ。

「最期の所はここか」と言って敷皮に座し、首を伸ばして断首された様子は、貴賎の間で褒め称えぬ者がなかった。

「栴檀は二葉より芳し」とはこのことであった。

かくして村重一人の仕業により、荒木一党は一門・親類上下を知らず四鳥の別れに血の涙を流すこととなった。

人々はその怨み恐ろしやと舌を巻いたものであった。

処刑後、遺体は生前人質たちが頼んでおいた寺々の僧たちが引き取っていった。これほどおびただしい人数の処刑は、上古より初のことであった。

 

その後12月18日の夜になり、信長公は二条御所へ参内して金銀・巻物等数多くを献上した。そして翌19日に京を出、終日の雨の中を進んで安土へ帰城したのだった。

珍重至極であった。」

 

やはり詠まれた歌の中に阿弥陀や西方(浄土)についての語句に本願寺門徒の存在を思います。

そして「他を殺したら~自分も殺される」「他を許せない者は~自分も許されない」の因果の道理もまた・・・

「他を生かせば~自分も生かされる」が仏の教えでした。

信長の本能寺の件、自業による自得でしょうね。仏罰とも。

 

画像はかつての上臈塚砦付近にある墨染寺(場所はこちら)。

墓域には彼女らを供養する塚が建てられていますが「女郎」と記されています⑤⑥。

こちらは先週の大河ドラマの最後で紹介されていました。

 

「上臈」とは高貴な人の意。女郎のイメージとは真逆ですね。

「上臈」といえば以前ブログで記した勝楽寺城の「上臈落とし」も思い出しました。

信長公記の記述の通り当時からその名があったのですから砦内に籠った「上臈」のことを指してはいないのでしょうが。

 

層塔はその近くにあって異彩を放っていました。

以前は村重の供養塔とかいう話もあったようですが。

やはりこじつけっぽく、それは今一つ信じられません。

 

「信長公記」現代語訳はネット上に溢れていますので各紐解いていただければと。 

 

 

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コメント: 2
  • #1

    小山昭治 (日曜日, 31 1月 2021 09:46)

    メディテーションが無事に終わり、ご苦労様でした。
    よく眠れましたでしょう。次もまたお願いします。
    お寺の存在意義を高めます。継続は力なり。
    昔の方の和歌を詠むのは習い事の一つだったのでしょうね。
    最後を前に詠んだ歌は、一瞬でも心にしみます。
    私もあやかりたいが才能がなく、残念です。

  • #2

    今井一光 (日曜日, 31 1月 2021 19:38)

    ありがとうございます。
    「来月もありますか?」などいう嬉しい声もあって
    毎月1回ではありますが気合を入れていこうとおもいます。
    当時の上臈といわれる皆さんたちをみてメディテーション風に言えば「自身のモニタリング」の力が重んじられた時代だったからなのかもと思うところ。
    立ち居振る舞いそして死に際も自身客観的に見ることができる・・・現代人には欠けているところです。