2月7日に期限を迎える緊急事態宣言、本当にその日でおしまいになるのか、大方の予想の通り2月末あたりまで延長となるのか現在のテーマになっています。
前回は「もうお終いかよ・・・」というくらい早々に社会の動きは元に戻ったわけで結果的に大失策をやらかしてしまったのでさすがにその轍を踏まないように慎重になって動くのが一般的な想像力。
しかしあのアベマスクを「どうだ」という具合に出してきた前例がありますので、もしかしてそれを「ここでおしまいにする」の選択があり得るかも・・・とも感じます。
何をやらかしてくれるのかちょぴり「楽しみ」にもなった政治イベントでもあります。
「人の口に戸は立てられぬ」なる諺がありますが、私が最近聞こえて来たそれはといえば、拙寺より直線で100mくらいの年配の男性がコロナで亡くなったということ。
それ以前の噂といえばそこからさらに200m程度東に行った場所の女性でしたから単純にその円は狭まったということですね。
何も私中心に世の中が動いているワケではありませんが「大分近くなった」ということは確かに感じます。
その男性は以前から私が知っている方で10年以上前ですがお斎の席の隣席だった記憶もありました。
最大疑問としてその方の行動履歴については存じ上げませんが「何故にして感染したのだろう・・・」というところ。
キャバクラへ行ったり飲み歩いて大騒ぎするような人ではありませんので。
町内でのその発生について緘口令が敷かれているが如く情報が入って来ない中、各想像力からの推測が闊歩してそれがまた不安材料ともなっています。
噂話を総合すると、この1年でコロナで亡くなった方はこの地区周辺で3人。
その間に私も各家葬儀に参加しましたが、おかげさまでPCR陽性の方は一件もありません。
今、人が亡くなった場合まずその死後検査は行われています。
その結果すらも「信じられないから怖い」という人も居ますが私は帰敬式(通夜のおかみそり)をしなくてはなりませんのでいつもご遺体とは最接近しマスク越しですが声(「流転三界中~」清信士度人経・・・)を出しています。
棺の中の仏は息を出していませんので大丈夫かと考えますが、どうでしょうね。
さて、2月7日といえば、本能寺の変の当日。といっても大河ドラマでのお話(放映日)のこと。
よってその日で今回の大河はおしまいということは決まっています。
次回の大河は「おやすみ」というのがこれまでの私の考えでしたが何故か「家康がナレーション」として登場するというので最初の1回目くらいは観ておこうと考え直しています。
それからどうなるかはわかりませんが。
その大河ドラマですが前回のポイントは荒木村重の二心でした。下剋上の代表格ともいえる彼の人生はやはり松永久秀と同様、見ている者からすれば面白すぎます。
ドラマでは「おい官兵衛はどうした」と突っ込みたくなるところでしたが、信長近くにあって比較的スルーされがちだった村重関り、伊丹の街にもスポットが当たっていました(番組最後の紹介コーナー)。
やはり信長への裏切りの件、ハッキリしないことばかりでそれらも推測の域を出ませんが小和田先生辺りは(本願寺攻め総大将が佐久間信盛になったうえ)播磨方面軍総大将をてっきり自分がと思っていたところに羽柴秀吉にさらわれたことに腹を立てたことも考えられると。
要はそもそも本願寺シンパだった村重が本願寺をバックアップしていた毛利の調略があったということでしょうね。
それにしても毛利・本願寺も限界に近かったのでしょうが松永に次いで荒木まで結果的に見殺しにしてしまったということかも知れません。
こちらで信長公記巻十二の天正七年に有岡城(伊丹城)の項目が現代語でネット上にありますので転記させていただきます。
13 伊丹亀裂 伊丹城謀叛人の事
10月15日、伊丹で滝川一益の調略が奏功した。
一益が佐治新介を使者として荒木方の中西新八郎を味方に引き入れ、さらにその中西の才覚によって足軽大将の星野・山脇・隠岐・宮脇も謀叛に同調したのである。
中西らは守備していた上臈塚砦へ滝川勢を導き入れ、敵勢数多を斬り捨てた。この謀叛により荒木勢は崩れ、取るものも取り敢えず有岡城へと逃げ入った。
将士たちは親子兄弟を討たれて泣き悲しむばかりであった。
これに対し織田勢は伊丹の町を損害なく奪取し、城と町との間にあった侍屋敷に火をかけて城を裸城にすることに成功した。一方岸の砦を守っていた渡辺勘大夫は上臈塚砦の陥落を受け、砦を出て多田の館に退去した。しかし信長公は渡辺がかねて降伏を申し出ていたわけでもないことを曲事であるとし、渡辺を殺害してしまった。また鵯塚の砦は野村丹後が大将となって雑賀衆の加勢を得て守備していたが、士卒は戦闘によってことごとく討死し、窮した野村は織田勢へ降伏を打診してきた。
しかし信長公はこれも許さず、野村を殺害して首を安土へ運ばせた。
荒木村重の妹で、今は後家となった野村の妻は有岡城中でこのことを聞き、憂きも辛きもわが身一人と嘆き悲しんだ。
生きて甲斐なき身ながらも、この上一体いかなる憂き目を見ることになるのかと思い嘆く姿は、目も当てられぬ哀れさであった。
一方寄せ手は四方より攻囲の輪を縮め、井楼・金堀衆をもって攻め上げ、命お助け候えとの降伏嘆願にも容赦なく攻撃を続けたのだった。そのような中の10月24日、明智光秀が安土へ参り、信長公へ丹後・丹波両国一円の平定を報告した。このとき光秀は志々羅百反を献上した。
15 悲歌
伊丹の城にこれある年寄共、妻子・兄弟捨置退出の事
11月19日、有岡城の荒木久左衛門ら村重配下の歴々衆が妻子を人質として城中に残し置き、尼崎に入って村重に意見し、尼崎・花隈両城を明け渡すよう説得することが定まった。
説得が成功した際には、各々の妻子たちは助命されるという約束であった。そうして久左衛門らは尼崎へと向かった。
なお有岡を出る際、久左衛門は次の一首を詠み置いていった。
いくたびも 毛利を憑みに ありをかや
けふ思いたつ あまのはごろも
久左衛門らが出たあと、織田信澄は有岡城中に警固の軍勢を差し入れ、櫓々に番衆を配置した。
いよいよ籠詰めの身となった女たちは互いに目を見合わせ、あまりの物憂さに歌を詠みかわしていった。その歌は次のごとくであった。
村重の妻だしが、村重のもとへ送った歌
霜がれに 残りて我は 八重むぐら
なにはのうらの そこのみくづに
村重の返歌
思いきや あまのかけ橋 ふみならし
なにはの花も 夢ならんとは
あここからだしへの歌
ふたり行き なにかくるしき のりの道
風はふくとも ねさへたへずば
お千代から村重への歌
此ほどの 思ひし花は ちり行きて
形見になるぞ 君が面かげ
村重の返歌
百年に 思ひし事は 夢なれや
また後の代の 又後の世は
あと、有岡城の段、クライマックスの「伊丹城相果だし御成敗の事」については少々長いので明日転記させていただきます。
信長公記から有岡城(伊丹城)の段の口語文をネット上から転記
させていただきました。個人的に面白いと思うのが野村丹後なる人物の登場です。
文脈から鵯塚の砦の総大将で雑賀の鉄砲州の支援を受けていたことがわかります。
これは勿論本願寺が控えていることを示唆していますが、本願寺・・・野村・・・といえば相良の野村一統を関連付けたくなってしまいます。
推測ばかりで・・・
私がこの辺りをブラついたのはかなり前のこと。
右も左もわからない地でイキナリその鵯塚砦に辿り着いたのですが殆どその面影はなし(場所はこちら)。
マンションがどーんと建てられているだけでしたがその名はまさしく「HIYODORI」でその隣の公園の名が「ひよどり公園」。
鵯の漢字は人によっては読みにくいものがありますので英字やひらがなを採用したのでしょう。
古い地名を残すという意味で有難いことです。
地形はどうなっているの?とマンションの裏をのぞき込みましたがやはり「なるほど」でした。
崖部にあってその下には川が流れています。竹藪の左手に福知山線の線路が。その向こうには大外堀に猪名川。
切岸を思わせる高台と河川を堀とした要害性あるかつての砦の存在を垣間見た思いがしました。
その時、野村丹後の指揮下、本願寺からの傭兵、雑賀衆の鉄砲がこの崖の上から火を噴いたことは間違いないでしょう。
いずれの人達も悉く織田方の手によって殲滅させられたのでした。
そのように本願寺勢の臭いが漂う中、私は本願寺、毛利に新たに調略されたのではなく、もともと本願寺との繋がりが強かった村重が「元の鞘に戻ろうとした」というのが信長反旗の理由かと思うのですが。
光秀も村重の裏切りも「実はバックに本願寺が・・・」という理由付けは私の勝手な「推測の域」なのでしょうがね。
コメントをお書きください
河辺健一 (日曜日, 31 1月 2021 22:03)
時々ブログを拝見させていただいております。
この前半の文章は、地方のコロナ感染者をめぐる空気がリアルに感じられると思ったので、自分のFBに投稿させていただきました。
ありがとうございます。
今井一光 (日曜日, 31 1月 2021 23:28)
ありがとうございます。
よろしくお願いいたします。