昨晩の通夜式は「五時六時」と以前の春ごろのように2段階形式に戻ってしまいました。
五時からがお勤めタイムで親族のみ。
六時からが一般焼香といった御触れと案内になります。
しかしこの「六時から」というのはそれを厳密に守るワケではありませんので、要は坊さんの退場と施主の挨拶が終了次第ということになります。
参拝者は随時さっと焼香してさっと帰るという方式でこれまでのように多くの方たちが時間を決めて同じ空間に同座するということはありません。
この「時間差」は坊さんとしては物足りない方もいらっしゃるとは思われますがなかなかうまいやり方なのかも知れません。
ただし近隣の某お寺のご住職は通夜葬儀の際は特に経典拝読よりも「お話」にウェイトを置かれる方ですので、さぞかしその方式は受け入れがたく感じるでしょうね。
「聴衆」が親族だけですから。
そして未だ法事等でのクラスターの件は聞いたことがありませんのでこのやり方が維持されることになるのでしょう。
しかしお勤めをしていて私一人デカい声を張り上げているのは「どんなものだろう」と少しばかり疑問。
御文の拝読は横向きになりますのでさすがにマスクは装着しますが、正面を向いての経文拝読(参列者には背中を見せています)はさすがにマスクを顎まで下げます。
でないと酸欠状態に陥ってクラクラしてきますからね。
お相撲さんが「コロナが怖くて相撲など取れない!」と親方から強く言われたそうですが、それは坊さんだってそうですよ。
その親方の弁が適切とは思いませんが、「病は定業」と日常的にそれを「当たり前」の如く言っている私がそれについて怖がって声が出せないなんて坊主としてダメダメの失格ですが(個人的には恐ろしい末法の世だとは思います)、他人様が見て異様、違和感を抱かれるのもダメですね。
「小声でぼそぼそ、何を言っているかわからない」と叱られるのではね。
さて、設楽原の信忠の陣を記しました。
「四戦紀聞 長篠」の記述①ですが信忠に「城介」とありますね。こちらが「じょうのすけ」。
元はといえば令外官。「鎮秋田城国司」そして出羽介・出羽城介→秋田城介に。
そもそも蝦夷地に対応するための国司の官職ですが、信長はまず息子への譲位とデビューとして東征将軍のイメージを思わすその「秋田城介」の官位を補任したのでしょうね。「城介」とはその「秋田」が省略されての通称。
勿論「東征」の差し当っての相手は「武田」でした。
その城介の設楽原の陣は昨日の通りですが、そちらよりも連吾川激戦地に近く家康の陣の背後に控えたのが息子で嫡男の岡崎信康でした。
岡崎信康は「松平三郎信康」家康の嫡男で「信」は信長からの偏諱です。
信康も信忠同様10代後半の同世代(17歳)。
信康は泥臭く歴戦を重ねて三河譜代の家臣団からの信望を集めますが結局は信長の命によって(諸説あります)腹を切らされています(20歳)。
天正七年の事ですが、この件当然に光秀の耳にも入っているはず。
信長が自分の息子信忠より家康の息子信康の方が優れていると判断したという説がありますが「将来危険である」と配慮してその「芽を摘んでおく」風のことが周囲に伝わっていたとしたらやはり信長への「不信」感は増大するでしょう。
岡崎信康の陣は松尾神社(場所はこちら)。
最前線の家康の陣の後方。この設楽原が初陣となります。
その後方に信忠の陣がありました。
⑦画像が松尾神社の杜。
⑧が家康の陣、その向こうに連吾川があります。
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