ここへきて大晦日の鐘衝きを中止したお寺の情報が入ってくるようになりました。
お寺それぞれのお考えの通り、その判断に行き着いたのでしょうがそれもOK。
拙寺の場合は「窓口だけは開けていこう」ということで「どうぞ・・・」のスタンス。「除夕鐘」を迎えます。
忙しい折とはいえ、世の中すでに正月気分。
昨晩はばかばかしいテレビ番組を忌避したいと「柘榴坂の仇討」(ざくろざかのあだうち)にチャンネルを合わせました。
「維新」とやらの時代に生かされ翻弄させられた武士の捨ててない心意気と葛藤を描いたものです。
景色も台詞廻しも面白く、渋くて深い映画でした。
今の日本人にはそういった魂はとうに消え失せています。
時代錯誤といわれましょうが、残すべき精神も捨て果てたようですね。それを感じました。
首都東京は昨日も944人とほとんどバカみたいな数字。毎日毎日よくもまぁ。考えてみれば東京こそが地方への感染源となっているのは当たり前のこと。
ただ傍観して「お願いします」の都知事さん、今週中、いよいよ1000の大台を見せつけることになりましょう。
まぁこんな状況からすれば「やめた方がイイかも」(鐘撞)という考えに至るのは仕方ないことでしょう。
拙寺は近隣在住の皆さんのそれぞれの考えに「任せる」というやり方でポイントはいつもの「いい加減」。
そして鐘衝きは拙寺の法縁として行うものという通常スタンス。
中止するしない、やめるやめないの問題とはならず、また外部からの意見等に右往左往することはそぐわないものと考えます。
淡々とその法縁、「宿善ありがたし」とよろこぶことが肝要かと。
そもそも「非業」に非ず、「定業」なのです、病になることなど・・・。
毎度良寛さんの言
「災難に逢う時節には災難に逢うがよく候 死ぬる時節には死ぬがよく候 是はこれ災難をのがるゝ妙法にて候 かしこ」
を吹聴したくなりますがきっとどなたかから「無責任」「放言」などとあれこれ叱られるのでしょうね。
さて、近江尼子氏発祥の地。
昨日の玄翁堂といえば現在は尼子土塁公園。
尼子氏発祥の城郭跡です。
昭和63年に発見されて平成8年に公園化されていますが我が家の「日本城郭大系」への記載は勿論ありません。
ここのところ尼子駅からこの街区を記していますが、戦国大名の尼子といえば出雲の尼子氏というのが最大イメージです。
しかしその尼子の出自こそこちら江州尼子です。
④の系図の通り、佐々木道誉から六代、高秀の四男高久が甲良荘尼子郷に入って尼子氏開祖。
居館築城は高久ということになります。
嫡男詮久(のりひさ)が近江尼子氏を継承し、次男持久が出雲国守護代として下向し雲州尼子氏の祖となっています。
系図からその持久の子幸久が山中姓、この系から幸盛・・・山中鹿助の名が見えます。
江州佐々木南北諸士帳にも見えます。
「尼子庄尼子 住 雲州佐々木末 尼子兵庫頭]
そちらに勝楽寺城の名がありますがそちらが佐々木道誉の入っ
た城です。
尼子城はそちらを本城とすれば一族譜代派生の城。
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