法要も葬儀式もひところのピリピリ感はなくなっています。
遠方から特に首都圏からの来訪といえば3月ころでしたら激しい嫌悪感があって、自粛して参加は見送るという方はまたぞろでした。
通夜などは僧侶読経、家族焼香の時間と一般参列者焼香の時間をずらして行うなどありましたが、先日はすべて一緒になったほどで確実に元通りにしていく動きはありますね。
いつまでも付き合っちゃあいられない・・・というところでしょうが都内の駅や繁華街の状況を見て、そこいらよりは全然マシのようにも思えます。
春先にあったよう葬儀主催者家族が首都圏在住によって「参加させない」というのは少々やりすぎのようにも感じましたので仏事に関して他人がどうこう言うのはどうかと思うわけで。
ところが最近といえば首都圏はじめ近隣他県からの参加者は増えて、以前の如くの法要参加者に戻ったという感じ。
と言いながらも医療関係団体、日本医師会の会長が「医療緊急事態」を宣言していました。
ガースーくんが「緊急事態宣言までには至らない」と発言していましたが、医療機関は業を煮やしたというところでしょう。
「政治家の皆さん、批判や牽制ではなく建設的な議論に限られた時間を費やしましょう・・・」と医師会会長は訴えていました。
まぁ政治屋が動かないということですが、悲壮感漂っているような・・・。
タマゴ屋のエライ方から現金を供与されたと疑いのある(ほとんどモロバレ)の吉川元農水相が議員をやめるとのこと。
まぁ捜査の手が伸びてきたということなのでしょうが、その件議員辞職までしないと収まりが付かないということでもありますね。
現金をもらってそのために何か動いたとすれば完全アウト・・・収支報告書の問題ではないでしょうよ。しょっ引かれるはず。
保身のことばかり考えている連中またぞろの中、庶民感情としてお上のお達しなど聞く耳を持ちたくなくなりますね。
さて、設楽原に戻ります。
先日記した勝頼が「諏訪法性」を捨てて走り出した「甲田」の宮脇川を隔てた地に北へ繋がる道があります。
勝頼の才ケ神の陣のある天王山から降りて東に行けば諏訪神社という道すがらこの宮脇川を渡ってから北上を開始したはずです。この道こそ勝頼に残された出沢(馬場美濃討死 橋詰殿戦地 藤生道)や大海方面に向かう唯一の逃走路です。
その道から少々行ったところに一段高くなった場所がありますがそちらに堀無手右衛門という人の墓があります(場所はこちら)。 甲田のこちら⑥画像奥に墓が見えます)
実は地元の名士で歴史家の牧野文斎はこちら設楽原での戦没の件を否定しています(以降の書き物に登場する)ので今一つ謎であるのですが金子藷山は
「堀無手右衛門の墓 下々村地内宮脇川の左岸旧飯田街道の東側に塚あり。殊に椿の老樹標示す。」としています。
下々(しもそう)村は天王山武田台地から東側、八束穂の下あたり。
しかしやはり牧野の堀の件、「甲陽軍鑑」からといいますので、どうしてもその書物は今一つ「参考」の域を出ません。
その史料は明らかな間違いと錯覚?による記述が多々ありますからね。
堀は勝頼の叔父一条信龍(昨日記した柳沢吉保は一条家の流れといいます)の配下として設楽原で戦ったといいます。
鎌子信治著「長篇長篠軍記」(設楽原戦場考)
「堀無手右衛門は最後の決戦に属して、竹広村(設楽原連吾川沿い激戦地から東側の台地)山形高地に陣取り徳川の精鋭を防ぎ、敵将本多甚九郎正近を討ち取り、味方総崩れとなるや武田信豊等と途中宮脇川の此所において追兵を防ぎ敵将滝川源右衛門助義を殪し、其他二十余人を殺傷した此処に壮烈の戦死を遂げた」
四戦紀聞の記述⑥1行目
「堀無手右衛門ヲバ渡辺忠衛門重綱・小栗又一郎忠政 相撃ニナス」とあります。
墓石は金子藷山の記述をもとに最近になって再建されたもの。
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