先日、久々牛丼屋に入りました。
その時は家じゅうの雑用を午前中ずっとかけてへろへろになった奥方から「昼食つくらない」発言があったため材料仕入れに出向いたついでに入店決行したものです。
7万円のステーキとやらに対抗しての思いつきですが。
午後2時近く、店内ガラガラのところノーマスクの人が隣の席に座って鼻をズーズー吸っている様子に奥方は閉口していましたが、「まぁそういうこともあらぁな しゃあない しゃあない」。思わず席を移動したくなりましたがね。人を信用しない風潮を助長することになりますし・・・外出と外食に関しては色々悩むこと多し。
芋切干を差し入れくださった檀家さんの孫が今年の年末は「帰省禁止」になった件記しました。
全国的に感染者数が増えているうえ特に「20代の突出」は気がかりですからね。
まぁどちらの年代も感染者は多くて年齢をもってそれを言うのはオカシイとは思いますが感染が多いということはそれだけ表に出てこない無発症の感染者が隠れているということですからね。
そして、若い連中は免疫力があって比較的新コロには強いように感じます。あとあと後遺症に苦しむことがあるとも聞きますが、イキナリ心筋梗塞とはならないでしょうからね。
そして当家もどんなものかと検討した結果、息子の帰省についても控えてもらうことになりました。
大晦日にやってきてもそもそも年明け2日から仕事があってロクな休みにはならないだろうし往復の降雪チェーン規制に疲労度を考えれば「そっちでゆっくりしていろ」が正解でしょう。
内心は息子に「うつされたくない」が本音ですがね。
「動かない」ことで相互のリスクを低減するというものですが、ガソリン代も高速代もお土産代も全部浮いちゃった・・・というところ。
ここまで新コロ蔓延に方策を見いだせなかったことによっておカネが世に廻らなくなりました・・・ということの一例ですが、これから庶民の財布の紐はますますきつくなるのでは・・・
まぁ政府はお札の印刷工場を持っていますし国債をバンバン発行して景気浮揚の「対策」とする作戦があるようですが、それって子どもたちはじめ後世の借金になるのでは・・・
大企業と富裕層を支える施策は結果的にその恩恵というもの「庶民にはゆきわたらない」という海外の論文をチラっと見ましたがそれこそ資本主義を廻すシステムなのでしょう。
さて昨日記した河尻秀隆の首塚の通りを隔てたところには信玄の火葬塚があります。
殆ど目と鼻の先といった感じですが「墓」の扱いとしては雲泥の差。
かたや民家の隣の狭量地に放ったらかしの躰に対して「信玄公」と「公」付けのうえ管理が行き届いたしっかりとした墓域として区切られて追善碑とその解読文まで設置されています。
当たり前といえば当たり前、河尻といえば武田家滅亡の先鋒として甲斐に入いった新領主。地元との関わりでいえばやはり「雲泥の差」は致し方ないこと。看板がなければ河尻塚の存在すらわかりませんね。
もっとも河尻って「だれ?」が大概の観光客の思いでしょう。
信玄の墓は恵林寺(ほか)にありますがこちらは火葬塚。
亡骸を荼毘にするに土屋昌次が「是非に・・・」ということで私邸を提供したのでしょう(場所はこちら)。
夜はBSの「関ケ原 空からのスクープ 幻の山城」視聴させていただきました。赤色立体図にて今年発見された西軍の陣城といわれる「玉城」(たまじょう)です。
西軍総大将の本陣が推定されていますが千田先生はまさに豊臣秀頼を引っ張り出しすことを想定していたと。
城郭大系の本編には出て来ないほど無名の城。
付録の「その他の城郭一覧」の不破郡「315玉城」に「不破郡関ケ原町玉 『美濃明細記』に城主不明とある」のみです。
大谷吉継の墓がある山の近くにあって決戦当日は大谷がこの城に入ったという説も・・・
小早川の裏切りの件も松尾山の陣の形状から新説が出ましたね(裏切りの布陣)。秀秋はハナから東軍に付こうとしていた腹が見えたということですが・・・。
玉城を陣としていた?大谷勢はその対応のために山を降りたというものですが小和田先生はこれまでの「情勢を見て」の寝返り説をとっていました。
そして決戦時は石田三成こそが玉城(山中 ヤマナカ)に入った・・・との説。
これまでの三成といえば笹尾山ですからまったく通説を覆すことになります。
しかしながら番組最後に千田先生が「あくまでも仮説」とおっしゃっていましたが。
玉城、雪がなければ今一番に行ってみたい城です。
あの手の番組はNHKしか作れませんね。
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