愚図々々していてなかなか「Go To」をどうするか決められないお国の姿を見せられています。
あれだけちょっとの間「止めたら?」という医療関係者そして各方面よりあがる悲壮感溢れる声に対して、「ちょっと待ってて」とばかりに「山」を決め込む姿(動かざること山の如し)には呆れを超してもはや失笑に及ぶレベル。
さすがに数日前までの「経済が、経済が・・・」のワンパターン、それを擁護しようとする声はトーンダウンしているようですが。
どっちがそれを最初に「やめて」と言い出すかで東京の知事とソーリの意地の張り合いのようなものも同時に拝見していますが、緊迫感というものは口にしていてもまったく実にあった対策はナシです。
昨日も遂に東京602人とその大台を超えました。
昨日その件予想していましたが早速やってくれたの感。
政府は「そろそろピークアウト・・・」を期待しているのかも知れませんがその山がもっと高いとしたらどうなるのでしょう。
烏合の衆が対策を放棄し、向かうべき高山について知らないというのは・・・それは「運を天に任せる」であってその言い草というものは本来非力の私たちの領分ですからね。政も毎度国民にとって運不運。
さて、設楽原、連吾川から出現した硯の件、拙ブログの画像を今一度見回します。
その③の硯の掲示板のある画像の左隅電柱の奥、やはり連吾川と馬防柵を突破したであろう連合軍方の陣の山の底辺に掲示板が立つ様子がわかります。
そちらには車で入ることはやめた方がいいと思って丸山砦のスペースに置いて橋を渡って向かいます。
そちらが「高森惠光寺快川」の墓です(場所はこちら)。
この「高森」は「竹森」であり、やはり近くの米倉丹後守正継同様に武田氏一統の家。
しかも竹森氏はその系図もハッキリし武田家14代信重(信虎が18代 晴信19 勝頼20)の六男がその発祥といいます。
その信重が「文安元(1444)年、塩山に玉宮神社社殿を造営し、玉崎にあった福応寺の住職に帰依して六男の周檜を入れて弟子とし、 周檜は竹森の下切に館を構え」、勢力を伸ばし武田家由縁の家臣団としてその名を残したという家でもあります。
別説では鳶が巣山砦にて討死したといもいいますが、こちら設楽原で討死した説が最近では有力のようです。
こちらで亡くなったのは惠光寺宗賢-玄孫の親子とのことです
がやはり墓碑は二つ。
ただし左側は平成九年、右のものは平成に入って近くの田んぼから出て来たという墓碑らしき石。
金子藷山がやはりこちらでの墓碑との出会いを記していますがおそらくその墓石ではないかといわれてこちらに置かれているようです。
金子藷山の記述
「農夫は又一の墓を案内して名高田村丸山の西南端なる山下に臨み候此処の田の畦に一基の小さき自然石の石塔に高森惠光寺
入道快川の墓と鐫り付有之候これも同じく其農夫に若干の鳥目を與へて植木を依頼置申候」
画像撮影の時期が違いますが⑤は大宮前激戦地の標方向からの高森の塚。⑥は塚から振り返って丸山砦方向。硯出現の標識が橋のたもとに見えます。
近くに人家がありますが、金子藷山が供養を依頼した「農夫」の末裔だったりして・・・
米倉の墓同様、いつ参っても新鮮な緑が香華として供えられています。
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