香港の件いろいろ腹が立ちますがどうにもならない他所の国の話。しょうがないねぇ・・・としかいいようがないですね。
ため息しか出ませんが。お国としてはノーコメントのようですね。あのソーリ殿は肝心な事には触れないメモ読み専。
国会も閉めちゃったようですしお気楽な方です。
昨日の東京の新規感染者は584人でやはり過去最高。
失礼な言回しですがまったく予想を裏切りませんね。
では、来週はどうなる・・・? その先は・・・?と思うのが人情というもので・・・どこまで数字並べをすることになるのでしょう。
政(まつりごと)に関わる人たちは「国民の協力が得られなかった」(自業自得)とどこ吹く風の躰なのでしょうね。
これもいつものことですから驚きませんがとにかく、病院を何とかしてくれ・・・ですね。ハコは作ってベット数は確保しようという方向に転換しているようですが、医療従事者が居ないというのが後手後手の様を物語っています。急ごしらえに合わせて募集をかけているようですが果たして・・・ハードなお仕事ですからね。
昨日は繰り延べになっていた一周忌の法要がありました。
親戚縁者御一統の多い家ですが施主の意向で順延し東京方面から遠方の参列をシャットアウトしたため参列者は3名でした。
拙寺の次の法要参加者は6名、その次が2名・・・今の合言葉は「集まるな」となっていますので致し方ないことです。
その方がラクという家もあるようです・・・そのラクさが実感できた今、これからいよいよ「小さな法要」「小さな葬儀」が当たり前に喜ばれる時代になるのかも知れません。
また、拙寺ではありませんが今回の報恩講で本山への「Go To」を利用したバスツアーを企画したお寺があったのですが何と出発直前で中止になったと聞きました。
まぁそれ以前にこの時期のバスツアーを催行するその勇ましさに感服していたのでしたが・・・。
私どもの今年のバス遠足は5月でしたが、3月の時点で「ヤメた」を決め込んでいましたからね。
ちなみに私どもの来年の遠足は催行日を二転三転しましたが、4月に京都のホテルを「えいやぁ」で予約していだきました。
「Go To」延長が来年6月末までということが殆ど決まり。
当初の予定をイジることはありませんでしたが、参加者としては「お安く」なることは間違いありませんので納得していただけると思います。来年は1年ブランクがあったということと「安さ」(まだどうなるかわかりませんが・・・)から早々満席になりそう・・・それも結構に頭が痛いところですが。
そのお寺さんが中止に追い込まれた理由は参加者の多くが「行けなくなった」からに相違ないわけで、要は参加者側の都合ということ。まぁツアーを仕切る業者はキャンセル料は取らなかったそうですが。
「へぇー・・・」と思ったのはキャンセルした人の中で、「年休を取って旅行に行くのはいいが、帰ってきたら2週間出社しないで欲しい」と言われた人がいたそう。
会社側の言い分としてはそれが今は真っ当な発想なのでしょうね。社員と製品を守るために。
お国は「Go」の旗ばかりを振る愚であっても民間は賢く動いているというワケで。
それにしても私は来年の4月には勝手に「終息・・・」と決めつけているワケですが足元を掬われるというのもこれまでの経験則。少々不安でもあります。
この「Go To」云々言える者は幸せ。
昨日のNHKの「コロナ危機の女性たち」についての番組を見てそう思った次第。解雇の嵐で雇用と収入の確保が危ぶまれている人たちがいるという現実、厳しいですね。
「諦めと絶望しかない」という声が聞こえました。
医療従事者に加えて「Go To 無縁」の人たちにも税金の使い途を大手の企業向きだけでなく細かい心配りをして欲しいものです。番組内「女性活躍社会とか言ってるが全然・・・」とぼそっと話すシーンがありました。
大臣や大企業の取締役に女性を採用することだけがそれではないはずですよ。
(非正規雇用の)「女性の雇用は増やした」と自慢しそうですが・・・。
ああいう番組は赤坂の高級料亭や会員制寿司店で密会を常としている政治と商いとを混同している御仁たちに見ていただきたいものでした。
ネット、オンライン、デジタル系大流行りで政府のテコ入れが強く叫ばれているところですが、それが進めばますます雇用が失われていくでしょうね。
そもそもその形態は「人と現場」を不要とするものなのですから。
国の施策は社会的弱者の「見殺し」にも似たものに見えて来ました。
さて昨日ブログの③画像を進むと新東名の橋脚にあたり、南に連吾川沿いに進めば丸山砦に復元馬防柵があります。
しかし川沿いに行かずそのまま山越えしていけば織田信長の本陣方向となります。
そちらには米倉丹後守正継(重継とも)の墓碑があります(場所はこちら)。
「金子藷山」という人がいますがこちら設楽原戦跡史蹟史料の原点となる書物を記した人ですが、慶長十二年(戦後三十三年)にこの地を歩いて考察を重ねた人。
今ある各標識案内板の解説文などはこの人の書き物によるものです。
その敗者武田方諸将の中、比較的長めでしかも厚い気持ち溢れんばかりに藷山が記しているのがこの米倉丹後守正継です。
周辺見かける「いろはかるた」の看板もなく今のところ地図にも記されていない米倉ですが、藷山の米倉への思い入れは他の武将とは違っているようです。
それでは「金子藷山随筆」をもとに記された「長篇長篠軍記」~「設楽原を守る会」より転記します。
「丹後守米倉この墓は設楽郡富永庄大宮郷の地内岩倉山の東北端にて連吾川の右岸へ半町許りの処に小さき野面石に米倉丹後守正継墓とほり付有之土饅頭も墓木も無之唯叢の中に捨てたる如くにぞ見へければ慨嘆の至りに堪へず余は其石塔の居座りを直し其前に跪きて生ける人に物言う如く真心を手向ける様は君逝きまして三十三年墓木既に拱矣と云はんとすれども目標の木一株だに見止るものなく墓所として御傷ましきことにこそ、されど君の誠忠は天神地祇の見そなはし給はん况んや天下の万衆に於てをや、余は感慨無量覚へず両袖を一濺の涙に濕ほし申候、偶々近き辺りに一農夫の在りければ若干の鳥目を與へ何よりとも香花に代えて数本の供木を植付呉るやう只管頼みければ快く諾ひくれたれば嬉しく此処を辞して次の遺跡に杖を移しぬ」
丹後守は敵方の鉄砲から身を隠すために竹束を束ねてそれを盾
にして突き進むという戦術を編み出した人(甲陽軍鑑)で、もとはと言えば武川衆。
武川衆とは甲斐国の土豪(地頭職から)武士団でそもそもの祖は武田家、その分流といいます。
この鉄砲玉を跳ね返してしまうという竹束戦法は武田軍に採用されていたようで、彼の機知にとんだ戦術眼は誰もが一目を置いていたでしょう。
その突破力の凄さは圧巻ですが「ちょっと疑問・・・」と思うのはこの人は「あまり衆」(甘利家)の後見人となっているはずなのにその「あまり衆」とは離れすぎています。
長篠戦では甘利軍は戦線左翼のはずだからですね。
これはどういうことか・・・やはり必殺の信長本陣狙いの柵突破に違いない!!と思うところ大。
北側から回り込むのはラクそうに感じますが昨日記した通り秀吉の陣が控えて目視されやすいエリア。
山を越えて一気に「総大将の首を取りに行く・・・」戦場における最上級の選択肢でしょう、桶狭間と同じです。
引用した文書に「墓木已に拱す」(ぼぼくすでにきょうす)の如くの語がありましたが、普通は「亡くなってから長い年月が経った」という意味。
墓に植えた木がやたらと太くなっていることをいいますが別の意に「死にぞこない」と罵る時にも使うようです。
私はその語は使用したことがありませんがね。
墓石には新しい供えが・・・こちらを見守っている家があるのでしょうね。⑤は昨日の馬防柵北限辺りを振り返ったところです。
馬防柵を破って数百m。彼が配下の武者どもを引き連れての突破と死闘の様が思い起こせます。
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