新規感染者、全国2678人という新記録を出した昨日土曜日(御開祖命日)、私は史蹟研究会メンバーのお二人と設楽原まで向かいました。
前回の刈谷行脚に続いて2回目の遠足でした。
お二方とも「設楽原も長篠城もまだ・・・」とのことで張り切ってご案内させていただきました。
「ご案内」などいうとまるで私の所有の如く言回しになりましたが、自分的には「そんなもん・・・<庭>のような」です。
設楽原~長篠を中心に奥三河の戦跡巡りなどは到底一日でできるはずもありませんがとりあえずということで本命中の本命、連吾川周辺と信玄塚近くの鉄砲の史料館、そして長篠城へ。
皆さん、「お墓」はあまり興味が無いようでしたが(何せ墓だらけの地です)歴史の中の中心となった現場に遊ぶその醍醐味を共有できる方がいることは嬉しいものです。
まぁ、仲間を増やしたのは有意義なことでした。
車は相良から新東名金谷経由で新城まで1時間とちょい、大して時間はかかりません。
お二人とも「また来たい」とそれぞれの車での再訪を期していました。
問題は同じ車での移動。いわゆる三密の最たる環境になりますからね。
帰り際に「コロナに罹ったら教えて・・・」と別れました。
車という空間といえばタクシーの運転手の件、よく例として挙げられますが、あまり「感染した」という報は聞きませんね。
ポイントはマスク装着は当然。
マスクも不織布の方が有効で乗車中ずっと付けていなくてはなりません。
いつもと違うのは車の換気方法です。
通常は「社内循環」にして外気の排ガスを入れないようにすることが多い傾向がありますが、ここは終始「外気導入」にして車内空気の吸入排出を心がけました。
当初は窓も各5㎝ほど開けていましたが「うるせぇ!」(風切り音が)といいながら閉められていましたが・・・。
まぁ先述したように皆さん普段から新コロ対策についてしっかりと気をつけて動いている様子、お互いを信じての行動でした。
勿論食事(ラーメン)は人さまの集中する時間をずらしてテーブル対面をしないように・・・。
「道の駅」は人でごった返していましたが連吾川の馬防柵前、昨日記した丸山砦周辺など他に人の影は一切ありませんでしたので概ね健全なお遊びだったと・・・。
本日はもう何度もアップしている(奥の墓道にここからの画像を送ると「また来てるのか・・・」)馬坊柵の正面と裏側から見た勝頼本陣のある才ノ神本陣方向。
⑤⑥は復元土塁とその上から(場所はこちら)。
⑧は皆さんと丸山砦へ。
この高さからだと馬坊柵が見えます。ということは丸山砦は両軍全軍から見える場所であり、そこを奪取するかどうかがどちらの郡にとっても指揮にかかわったことは間違いないところ。
友軍の旗が立つかどうかで一喜一憂したことかと。
最後の画像が道の駅の入口の掲示。
このドアがお寺でいえば結界なのでしょうが、寺の境内にそんな規制は設けられません。
史料館2か所(鉄砲史料館と長篠城史料館)の通し券を購入しましたが、どちらも検温は必須。
これも拙寺では考えられません。
社会の要求はわかりますがつまるところそれは「病人の入場を禁じる」ということですからね。
ただでさえ結界を設けない当流にあってその件「それを言っちゃあおしめぇ」みたいなものです。
むしろ「病人こそ来て欲しい」というのがお寺のはず(極論)。
案外と「自身無病」と錯覚している方などが他者を拒絶しようとするものなのです。
病人差別の助長にも感じますが「感染したかも・・・」と自覚してもそれを公表せず隠して自身の自然治癒力を期待して様子見し、挙句世間蔓延と繋がっていることなど最近思うようになりました。
来週はいよいよ「医療崩壊の実際」があるのでしょうか。
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お祭り大好き (日曜日, 29 11月 2020 12:42)
「長篠・設楽原の戦」の現地を4日間に亘り紹介くださり、興味深く拝読しました。
現地では「長篠の戦」と謂わず「長篠・設楽原の戦」を用い戦場の設楽原を重視しています。
「設楽原をまもる会」など地元のみなさんは、当時田畑を荒らされ多大な被害を被ったにも関わらず両軍戦死者を手厚く葬ったうえに今でも5月の長篠城址・7月の設楽原(信玄原)の供養以外に吉村地内や鳶ヶ巣山でも慰霊祭を斎行しています。 田沼意次侯顕彰活動とは異なり、武田信玄17代目など敗れた武田軍の末裔も感謝の念を抱いて参列しています。
今回の訪問では墓所訪問を割愛した模様ですが、墓石周辺も整備されており地元のみなさんの供養を続ける気持ちを大事にしたいと感じます。
なお、5/5の「長篠合戦のぼりまつり」や8/16の「信玄原のひよんどり」なども一度観賞することをお勧めします。
今井一光 (日曜日, 29 11月 2020 20:52)
ありがとうございます。
長篠城と設楽原の合戦のあったその地と田沼さんの名でのみ「売り出し」を図る相良とは、申し訳ないとは思いますが日本史上「役者が違う」の歴然を感じてしまいますが致し方ないことでしょうね。
整備も進んで行くたびに新しい発見があります。