設楽原連吾川 柳田橋から見る馬坊柵 

新コロ重傷者が増えすぎてコロナ専用病床の使用率が上昇しているとのこと。

毎週木曜日にスゴイ数字を見せられていますがどうなることやら。

医療崩壊秒読み開始か・・・というところのようですが、それって切実ですよね。

医療従事者は疲弊しているところに追い打ちをかけて患者は受け入れて看護することができない。

これから新コロに罹ったら「野垂れ死」するしかないということでしょうね。

 

今井信郎の刀の柄にあった「野ざらし」(塔婆と頭蓋骨)を思いだしますが、時代が違いすぎますね。

その刀が遺骸の脇に立ち墓標とすることを意図しての「覚悟」なのですがそんな達観させるなんて、政治が国民に強いていいの?

 

さて、そろそろ史蹟研究会の会合がありますが、前回は雨天で流れた遠足の予定を入れています。ノー天気ですね。

参加者はかなり前に刈谷に行ったグループとなりますが近場でごまかすか、長篠まで行くか思案中。

長篠といっても新東名に乗ればあっという間、ほとんど浜松と同じようなものですからね。

 

私が車を出して運転手ということになっていますが、この新コロ大流行りの時期にそんな密接空間てどうよ・・・と引っかかるところあります。

 

マスクしておしゃべり無し、寒いけれど窓を開けての走行に果たして皆さん耐えられるか・・・です。

私が最年少なワケで、どなたも「接待のある飲食」からカラオケ等無縁の方たちですが、現状からして行動規範からのウィルス感染の確率は薄くなっていて、今どなたが感染者となったとしても不思議はありませんからね。

 

皆さんからすれば「オマエが一番怪しい」というかも知れません。当日、どうするか皆さんの顔色を見て決めることにしましょう。

 

画像は久しぶりに引っ張り出してきた、設楽原の風景。

激戦の連吾川にかかる柳田橋付近(場所はこちら こちら)。

⑤に馬防柵と新東名の高架が見えます。

⑤の山頂が信長の本陣。新東名の左方向に長篠設楽原PAがあります。そのPAから高速道路の北側の山の中腹に秀吉の陣、信長の陣から南側、中学校の上側が家康の陣でした。

小さな連吾川ですが当時は橋も無く泥湿地帯であったと思われ 

ます。

 

道の駅「もっくる新城」で足湯でも浸かってのんびりしたいですね。

しかし皆さんも怯え切っていますから・・・さぁ、どうする です。