昨日報恩講あけの日曜日は清水の三保の松原近くの墓園まで。②は久能山。③④は駿河湾。③の奥が松原方向。富士山がうっすらと見えます。夜間は雨が多めに降っていましたが青空が広がって暑いくらい。結構にボート、ヨットが出ていました。
「東京で第三波の兆候アリ」とのこと。
今週は久しぶりに300代の声を聞くような気がします。
昨日はちらっと大相撲の観客席を見ましたが以前の如くたくさんの観客が入っていました。
「経済 経済」と言いつつ「神風」を信じて「ゆるゆる」を醸成すればその状況になることはやむを得ないでしょう。
案外「想定内」なのかも知れませんね。
まぁ私は統計学の数字の陽性方には入りたくないというのは本当の所ですが「なったらなったで仕方ない」で受け入れます。
それにしても最初にその手の思いをさせられたインフルエンザを連想しますがあの40℃超えの辛さは味わいたくありませんね。
昨晩の「新コロの全論文AI解読」(NHK)についての番組で「脳をヤラれる」という図式は恐ろしく感染したことを後悔することになるでしょうね。
その他副作用の数々、やはり「仕方ない」よりも罹らないよう努力することが最大限必要だということです。ちなみにそのAIが紐解くその対策の有効性の冬季1番の着目点は・・・三密回避とマスク、手洗い、消毒に加えて加湿(湿度40~60%の推奨)に関しての重要性に合点。
喉の粘膜の活動を促し飛沫の飛び散る量が減るということです。ただしウィルスは下に落ちるのでテーブルや床を拭き取るなども必要だといいますね。
さて、先日は息子が「当家の風呂に入ると痒くなるから」との理由で外の風呂に赴いたその次の日、「試しに入ってみろ」と家風呂に入ってもらいました。すると驚いたことに上半身に湿疹(小さな粒々)が赤く浮かび上がっていました。冗談ではなかったのでした・・・
1時間もするとその湿疹は消えていきましたがまったくもって不思議な事です。そもそも息子の言っていることなど真に受けて聞かないという習慣が身についていましたのでその事実には本当に驚かされました。
少なくとも私どもにはその手の症状はありませんから。
息子は「ここの水は何か違う」と主張しています。
ちなみに息子は当家に来たときはネコアレルギーの薬を飲んでいますが・・・
その「自分は大丈夫につき、他者も大丈夫だろう」は大きな錯覚ですね。
人それぞれ何から何まで「違う」のですから。
大抵その錯覚は「私にできて貴方にできないはずはない」という論理です。
それを人それぞれだから「仕方ない」と了見できないのですね。そこを苛立ち、嫌悪の目で見下せばゆくゆくはパワハラ状態になったりします。
今も時々CMソングとして使用される曲(「ファイト」)そのサビの歌詞に「ファイト! 闘う君の唄を闘わない奴等が笑うだろう」なる部分がどうしても耳に障ります。
特にその歌手については学生時代、同じアパートの一つおいた部屋に住む先輩が一日中その人の曲を流し続けていたため曲調と声に関しては耳に馴染んでいますがそこのフレーズ「闘わない奴等」の語彙は前後文脈を無視して違和感というものがあります。
私としては何事においても必ずしも「闘う必要はない」「闘わなくてもいい」「フツーでいい」というところですが、中には「闘えずにいる」人もあるはずです。
「笑う」「嗤う」ことがイケないようにも感じますが別に笑っても笑われてもイイじゃあないか・・・というのが私の意見。
まあ、バブル期の「24時間闘えますか」が囃された時代の曲ですのでそういった言葉で人を叱咤する歌曲もアリといえばアリなのでしょうが。
ただし今は「闘う」などの勇ましい言葉は不要。
そこに価値を見出している方がいたとしても他にそれを振りかざすのは無用。
少ない子供たちに向かって「闘え」を強要すれば闘えない子は一体どうすればいいの? バブルなどはもう二度とないのですからね。
社会が人間をある一定の価値観によってダメ、使えないと決めてしまえば人は育ちませんね。
まして闘えない、闘わない人はその烙印を押されたとすれば挫折というカタチに至るかもしれません。
先般行ったゲート・キーパー講習会にもありました。
最近の若い女性の自殺は芸能界でのその流行が起因していることは間違いありませんが、トータルで見ていけば男性が70%と突出。
男は弱い、闘うことが辛かった、結論を出すのが早い傾向・・・などと一言で片づけるのはカンタンですが、これは勿論「社会」というものがその「挫折」に関して気を使ってこなかったことに違いありません。
今や「気を使っている暇はない」とその理由を放置する時代ではありません。
どう隣人に配慮し気を廻し寄り添っていこうという態度を示すか、度を越せばきっと自身が疲れてしまうのでしょうがまず皆が他者を労わる気持ちを持つことが必要ですね。
息子の風呂水湿疹を見て、何もわかっちゃいない自分を知りました。バカな私同様こいつもアホなのだろう・・・何においてもそうなのです。お利口な方からすれば尚更かもしれません。
親鸞聖人も当時はほとんど破戒僧呼ばわりされていた時期がありましたね。他者の思う「変わってる、オカシイ、イカれている」という「常識」というものも疑ってみる必要がありますしまずは私たち皆「聞く」という作業が一大事。
相手の心も自分の心の声にも耳を傾けましょう。
何よりエライ人(坊さんはエライとは思いません・・・)は自分にとって耳が痛いような案件も・・・
①は息子の世話になっているお寺のカレンダーから。
男はプライドが高いから「自力」で解法を求めようとしますね。何でも自分で決めて結論を出しがちなのでしょう。
ここは一つ謙虚になって愚痴(私の愚かしさ)を聞いてもらえる人を作ってみては。
愚痴は仏教における煩悩-三毒(貪欲・瞋恚・愚痴)の「愚」にあたりますが「煩悩ありのままで涅槃を得」という教えの当流にそれをダメとする判は押しません。
親鸞さんも自身のことを「煩悩具足の凡夫」と称していました。
それは他流とは違っていますが、今、各寺院僧籍にあるものは余裕のスタンスで皆さんの愚痴を聞く用意があるはずです。
「それには及ばない」という方がまず結論を出してしまうものなのですがね。
歯がゆい限りです。
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