摂津国島上郡 嶋上郡衙ぐんが 芥川郡家

齢を重ねると何事もまったくもってヤル気が起こらなくなります。

昨年あたりまではチェーンソーを樹上でぶん回して境内樹木の伐採をしてきましたが遂に手首と関節の老朽化が出現したのか「捻じれ」に対しての許容が難しくなりました。

要は痛みが走るような「変化」が始まっているということです。

その樹木ですが1本、「寺テラス」に陽光を入れるために思いっきり伐採したのはいいのですが、それが枯れかかっているような姿にこれも「変化」しています。

相当怪しい部類ですが、復活に何とか望みをかけているところ。

残したい木ですし・・・

 

さて、昨日の「芥川」。

何故にこちらに・・・の続き

明治以降芥川町は村制を経て町となりますが島上郡の芥川村・郡家村が元。

「郡家」とは古い名称で律令時代の「郡衙」(ぐんが)を意味す

る語でもあります。

郡衙は国衙に準ずる国の出先機関で施設としては郡司が政務にあたる正殿や役人たちの庶務にあたる場、租税出挙など徴収物を管理する正倉などで構成されますが、その「郡家」の地名の通り、芥川、西国街道の交わるこちらにはかつての郡衙があったと言われています。

のちに「国衙」国司から成長した有力荘園管理者、開発領主により吸収されて衰微しつつ姿を消していくことになりますが、この地が往古から地域の中心地であったことが推測できます。

ちなみに鎌倉期の地頭や守護の台頭を迎えさらに室町期に国司たる守護大名が生まれるという大雑把な歴史の流れでしょう。

その当初の郡レベルの権威者が政務を行う役所、それが「嶋上郡

衙跡」ですが高槻市内から芥川山城へ向かう途中にあります(場所はこちら)。

 

この広大な敷地を高槻市は「保存・管理」していることを考えると先日記した焼津の小川城の上に建つ住宅街を思い出してしまいます。

今となってはすでに遅し焼津市の後悔の気持ちはわかりますがやはり人々の考え方の深さが一言、未熟だったということでしょう。

 

それから大河ドラマでは足利義昭(覚慶)が将軍宣下を受けて第15代将軍を名乗るところが放映されていましたが、歴史のタイミングとしては三好三人衆に担ぎ上げられて14代将軍となった義栄が入京できずにいましたね。

将軍在位期間は半年程度と短かったのは京都の争乱もあったわけですが、もともと病弱であったということもあります。

ではどちらに居たの?ということになりますが高槻は富田の御所、普門寺でした。

 

まぁこちらは三好家の足元だったということもありますが、この高槻なる地は幕府将軍の御所があったということで短期間であったとしても武家の統領の所在地ということになります。

信長はそこにもこの地に一見の価値あると芥川城に立ったのでしょうね。その後家臣に任せて退去し本拠は安土にしたというのがその流れでした。

 

普門寺の城塞としての記述、歴史的そのタイミングについて城郭大系から。

「永禄四年1561五月、管領細川晴元は三好長慶のために普門寺に幽閉され六年三月、死去。また、九年十二月には三好三人衆(三好長逸・三好政康・岩成友通)に擁せられた足利義栄がここに入り将軍宣下を待ち望んだ。ようやく十一年二月に征夷大将軍に任じられた。しかし同年九月足利義昭の入京があり、戦闘意欲はあったものの<腫物>を患って病没した」。

 

足利幕府とは言っても戦国を舞台にする13・14・15代は特に空しく感じます。まぁどなたが将軍になったとしても同様の結末だったかと。

 

バス停の清福寺と郡家は地名。この南に西国街道が走っています。