一乗谷城 下城戸登山道を登る 福井平野と足羽川

久しぶりの川崎・横浜の都市部の車の移動はドギマギさせられることばかり。

川崎市内はほとんど20年ぶりくらいでした。

車から見る歩道の通行人はノーマスクの方たちも見受けられ、結構にのんびりの感。

まぁ昨日のあそこ辺りは外気温34℃となってそれを顔に覆っての通行はキツイものがあったでしょうね。

 

新しい道、特に帰路、東名(横浜青葉)と第三京浜そして湾岸線まで接続しているのはびっくり。便利になったこと。

私のナビは新設道路非対応で却ってその存在が適正な判断を妨げてイライラがつのるばかり。川崎から湾岸線に乗って道路標識をたよりに辿り着けました。

以前でしたら悩むところでしたから。

 

ナビ屋さんは古いナビへのソフトの対応も遅く(要は新しいナビ機の購入を促しているのか・・・)何より新設道路開通とのタイムラグもあるので購入には注意が必要になります(一年は遅れます)。

息子はそこのところ「ナビはアテにならないのでオレはスマホ」と。

 

ソフトの更新が遅いのは経費の面で厳しいのかもしれませんが、古い地図を使わされて不便さを思うユーザーは息子と同じようにこれからナビを捨て去るかもしれないことを考えないといけないのでは・・・

今回の件でナビソフトの更新をしようという気になりましたがそれの出費もキツイものがあります。

陳腐化ナビの発するものは偽情報ばかりでロクなことがありませんからとにかくそれから解放されたい・・・。

 

そして今回の行脚で失敗したと思ったことといええば、小銭を一銭も持っていかなかったこと。ここ急激に習慣化してしまったキャッシュレスとカードでの支払いの利便がつい迂闊にさせました。

まだまだ世の中アナログなものがあって特に「これは困った」と思ったのがコインパーキングの支払い。

その件事前に気づいて「ちょっと寄り道」を思いとどまりました。

あの辺りでちょいと駐車したら即お縄を頂戴しますからね。

そして以前は結構見かけた携帯電話払いの自動販売機が何故か少なくなっているようで、自動販売機の利用ができないのもイケません。まぁ後者はコンビニで解消できますが器械相手なら人との接触はありません。

とにかく厳密なキャッシュレスはまだまだ先の話ですね。セキュリティも酷いものの様。 

 

さて一乗谷城。

いわゆる一乗谷と呼ばれる遺構は朝倉一統と家臣団、政治組織そして都市を形成する町人たちの生活圏のことを言いますね。

駿河今川でいえば賎機山があったように、いざ有事というときに町を捨てて山に上がるシステムが控えているワケですがその詰めの城が一乗谷城(一乗山)。要は「谷」ではくて「山」の方。御屋形の裏山になります。

 

概略城郭大系の冒頭の部分からその位置についておさらいすると・・・

「福井市の中心から足羽川を東南にさかのぼること約10㎞で山間にかかり南からの支流一乗谷川を合わせる。この谷川がつくる幅500mもない狭い谷間に今から約500年前、100余年にわたって繁栄した朝倉氏代々の居館跡とその城下町の名残がある。

一乗谷は西は標高約200mの御茸山、東と南は400mを超える山々に囲まれて、北だけがわずかに開けている。その北も足羽川をもって外堀となし天然の要害となっている。

三方の山々には砦や山城を築き、さらに足羽川が福井平野に出る両側には、東郷槇山城と成願寺城を築いて守りを固める」

とあります。

 

その一乗谷の東側の470mの一乗城山が本城。

登攀する下城戸登山道については以前その登城口についてさらっと記しましたが主に3本ある(①下城戸安波賀から②馬出から③本館の裏から)登城路のうちそちらを選択したのはそちらを除いて「水が出ちゃって無理だろう」のアドバイスを一乗山浄覚寺の朝倉住職からいただいたからです。

 

3つの登城路のうち大手たる本道はその②馬出からの道。あの時の私の行程は①から上がって②で降りるコースを辿りました。ご指摘にあった通り②は道に水が溢れる箇所がありましたが何とか下ることができました。 

 

下城戸からのルートは一言で言って空堀竪堀底を進むといった道で時に石畳?を連想するような箇所もあるような気にもなりますが殆ど放置状態。

特に枯れ葉の堆積物が滑りやすく注意が必要です。

その後に皆さんをお連れしたバス遠足では飛び入りの城郭好きの方がいらっしゃいましたがさすがに勧めることはできませんでした。「また次にどうぞ」です。

 

しかしこのコースは(おそらく搦手道なのでしょうが)狭い堀底を進行する攻城軍を想定すると左右の高い位置からいいように仕留められてしまうような気がします。

皮肉にもこれだけの規模と準備万端の施設を誇る山城をいとも簡単に放棄して逃亡しなくてはならなかった朝倉義景の心情たるや如何。

 

あの時は彼に随行する者たちもまばらと聞きますから致し方なしだったのでしょう。城は大きいばかりでは機能しません。

それだけ守備に人が割かれるということで大量の人員が必要です。

そして動員する人が多ければ食糧等の維持が不可欠になりますのでつまるところ戦争など回避するのがベストな選択。

朝倉勢は出張った負け戦で家臣団が疲弊逃散して籠城戦もできないくらいの躰でした。

戦いの準備を周到に行うのもいいのですが、やはりその戦いにならないよう交渉努力するのが為政者の力量ですね。

 

なにより民を不幸にしかつ自身滅亡してしまいますから。

すべてにおいて「勝つ」ことばかりではないということを「負けて知る」・・・ではあまりにも智慧が無い。