朝のテニスの全米の決勝を見たあと、静波墓苑へ。法事は無し。
怪しい天気でしたが一応予報を確認して「まず大丈夫」と判断しました。「降るかもよ・・・」と奥方からは指摘がありましたがその忠告は無視。
草ぼうぼうの様とカイヅカの成長に苦笑しながら除草剤の散布を始めました。刈機の使用かどうか迷いましたが薬剤で枯らして「放置」・・・が結構にラクでついそちらを選択です。
そして物置小屋が壊れかけていましたがこの日は寸法を見ただけで帰宅しました。
その後雨が降りだし「ツイてない」と舌打ち。
折角の薬剤の散布が水の泡になったような。奥方からは「だから言っただろ」と憎まれ口を浴びせられる始末でした。
木々が茂る庭のあるお宅(檀家さん)がありますが、医師から「梯子など乗って高所に行くな」と忠告されているそう。
そんな戒めなど無視して木々の剪定をしているそうですが、実はね・・・と信じられないような話をし出しました。
その方はお寺の京都納骨バス遠足に毎回同行してくださる方ですが第一声「今年の遠足は中止にしてもらってよかった・・・」でした。
新コロ蔓延で募集一転中止にしたのでしたが、その予定していた日の翌日に心筋梗塞で緊急手術して入院していたと。
もし、その遠足で「発症していたら」を思うと相当の幸運を思ったそう。
拙寺の遠足はその名の通り皆さんに歩いていただきますからね。
予定では南山城岩船寺から山道を浄瑠璃寺まで徒歩というコースがありました。車両の進入は不可能な野山ですから「もしや」を思うと心底震えが起こります。
その方のお話では前日に右の肩甲骨辺りに痛みが出て「す~っと冷たい空気を吸いこんだような気がした」といいます。
その表現はその時味わった方のみのもので私には今一つわかりえませんが、痛みにつては翌日には引いたとのこと。
念のためということで近場の医院にて検診してもらえば「今スグ救急車を呼んでもいいが榛原病院へ」と紹介状を貰って病院へ。ちなみに「車では行かないよう」と念押しされたそうですが「それも無視して行っちゃった」と。
その日に1本カテーテルにてステントを挿入、1週間後にもう1本。二度目はなかなか入らず3時間もかかって冷や汗が出たとのことでした。麻酔は腕のみで手術中の会話は一部始終聞こえてくるとのこと。
診断後即入院しての緊急手術は心臓の血管が2本詰まっていたから。心筋梗塞の前兆がある例はそうは多くないといいますがその微妙な前兆を「まぁいいや・・・」で見逃さず医師の元に走ったことはまさに英断でした。
その方は飲酒と喫煙の習慣はありません。
今後食生活の改善が課題となったそうですが、その旨私もそこのところはこれからのポイントとなることは同じです。
すべてにおいて「有難い」と手を合わせてしまいました。
その件やはり今年の遠足は中止にしてよかったと安堵したわけですが、その前年は京都東大谷のあと本山と越前一乗谷、吉崎御坊に金沢という遠征がありました。どちらも自由散策ばかり。
その方も勿論同じ行程ですが相当に歩かせてしまいました。私も「歩かないと死ぬ」理論を日頃言い触らしていますしそれは致し方ないのですが人にはいつもの持病以外、突発性の病理が隠れていてそれが何時出現するのかわからないということも頭の中に入れておく必要がありますね。
歩きの件、たとえば去年の一乗谷ですと下城戸でバスを下車していただいて(ほとんど無理矢理)義景館跡まで歩いていただきました。画像①~④。勿論私が殿(しんがり)です。
こちら一乗谷ならばわかりやすいのですが来年の南山城は先導が大事。最後尾を奥方に頼むとしますが先頭と最後尾は相当に差がついてしまいますし山道ですのでそちらのフォローも必至となりましょう。車椅子をあの道に持ち込むかも思案中。
さて、一乗谷についてはかつてその図面をブログにて記しましたが城郭大系のものを2点。本館跡のものと全体図です。
全体図⑥に着目してください。
図面上方が北になりますがそちら側が下城戸①②③。
そして図面南端が上城戸となりますがその外側スグの黒く囲まれた「斎藤」なる字名・・・
こちらが斎藤義龍の子龍興一門が屋敷を構えた地といわれている場所でしょう。
道三-義龍をいろいろ詮索入れずに父子とすれば道三の孫にあたる人。
あの「やれやれ振り」を表した竹中半兵衛(またはこちら)らによる稲葉山城占拠事件を経て美濃国内での信用は丸潰れ。
結局は織田信長に美濃を追い払われてから伊勢一向一揆-本願寺に三好三人衆と反信長を旗印に転戦、最後に越前一乗谷に納まったのでした。
美濃では「ヤバくなったら越前へ」は合言葉のようなものだったのでしょぅね。
まぁ縁戚の近江浅井はまだこの当時は信長と同盟状態(浅井長政は信長の義弟)になっていましたので美濃奪還の選択肢としてはこちらしか無かったのでしょう。
実際、そのために顕如さんも手を貸して越前と伊勢から美濃、尾張を挟撃しようとする計略もあったよう。
それにしても上城戸といえば一乗谷を城に見立てて(一乗谷城という詰の山城はあるものの)籠城戦となれば真っ先に敵方と戦闘に及ぶ場所。それもいわゆる城、掘の外側ですからね。
義景らしいといえばそうですが龍興も庇護されるよりは前面に出て戦働きをするのだという気概はあったでしょう。
この位置はまぁ致し方なくも承服する場所でもあったはずです。
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