10月から「Go To (感染拡大)キャンペーン」に東京を加えるかどうか悩んでいるそう。
私の如く個人の新コロ対応が緩んでくるのは致し方ないにしろお国の方が手綱を緩めて解放気分を世に蔓延させるというのは少しばかり疑問。しっかりと金儲け関係の意見だけでなく医学界、ウィルス学界の見地からまともな判断をしていただきたいものです。
私どもが「気が緩む」といっても人がそもそも居ないところですからね。人と接することが少ないから安心に振る舞えるわけで、人だらけごちゃごちゃの東京で感染者が日々三桁を叩き出す状況は理解できます。その東京の未発症感染者がこぞって地方に振り分けられれば次の波動は大きいものになるのではないでしょうか。
各地方でそれぞれ変異して再び東京に舞い戻ることを推測しますが・・・
昨日はパンデミック宣言半年後、新コロの世界の死者数が90万人のニュースをブログにて記しました。アメリカ、インド、ブラジルの世界のトップ3を並べましたが、欧州であってもその鎮静化には程遠いというニュースを見ました。
9月10日の段階で一日あたりの感染者が約1万人と過去最多になったというフランスの件。
どちらの国も派手な数字ばかりで恐れ入りますが、日本人は(私も実はそうですが)「日本は特別」の如くこの不可思議な状況(感染者も死亡者も比較的少ない)に甘んじているように感じます。
まぁツキというか偶然なのでしょうがこれに胡坐をかいて漫然と緩和方向に進めばいつかは「ピシッ」とやられるのでは・・・何せ「日本だけ」の説明がつきませんからね。
さて、今日も一乗谷。
昨日は朝倉家の特色として紛らわしくも先祖の名と同じ名を名のることがあるというものを記しましたがあと一つ、「家」というものを大事にするあまりなのか、一族系統を要職に配分、結局は「御屋形」と対立して無用な争いを起こすといういわゆる親族間闘争が起こってしまうというところも見受けられます。
まぁどちらの「家」であっても戦国大名に限ったことではありませんが、考えてみれば足利将軍家について(今川家も)はその辺りの件、最初からルールが決まっていて惣領以外の次男以下男子は僧籍に入りましたね。
昨日ブログで記した「義秋」改め「義昭」は興福寺一条院に入っていた「覚慶」が還俗将軍(15代)でした。
イザという時の将軍スペアとしてもありますが、とにかく幼少より仏門に入り「長男-家督相続者」には対抗意識はハナから持っていないということを表明するワケです。
次男以下は他家にて養育させる・・・などのパターンもよくありますが、そうなると面倒を見た家や嫁がせた父方の家が「その者(婿殿)こそ家督に相応しい」・・・などと往々にして言いだすもので後の紛争の種になる例は多々ありますからね。
朝倉家最期の御屋形となった朝倉義景はやはり戦いとなると前面に立つことは少なく、いざ戦となると通説従弟(父10代孝景の弟の子)といわれている朝倉景鏡が総大将として主戦を率いていました。
織田との重ねての戦に疲弊し不満が醸成したのか、小谷城を包囲された浅井の後詰に関して「疲れた・・・」を理由に出兵拒否。
仕方なく義景が出兵するもボロ負けの敗走となって配下の兵もちりじりとなったわけです。
一乗谷に居た景鏡は義景に対して「ここは一つ一乗谷を退去」して再起を図るよう進め、自らの手配した屋敷に匿うのですがそちらを包囲して、自害に追い込みます。
勿論、義景の首は信長への土産。
そちらが例の「箔濃(はくだみ)」として祝宴にあげられたというわけですね。
景鏡はきっと、いつかは義景を追い落として「自分が」の気持ちがあったと思うのですが、皮肉にも信長への許しは得たものの「朝倉」の名跡は捨てさせられています。
その末路も悲惨そのものですが、改めた名(土橋信鏡)には元の「鏡」の字だけが光っています(「信」は勿論信長から・・・家臣を意味します)。
「鏡」とは私を客観的に見る道具でありますが、意味としては他者の模範、規範となるということ。しばしば「鑑」と同一にイメージされます。宝物としてもありますね。
私は「仏」の作用としてそれこそ「私を見つめなおす」ことができるのだ・・・などと吹聴する語彙ですが、この景鏡さんについては「名は体を表す」などとは言えないような逆鑑。
鏡・・・鑑になるような人格はそもそも難しい事。
なぜなら人間だから(煩悩まみれの)。
一乗谷の義景屋敷跡の北隣には景鏡屋敷跡④~があります。
こちらで色々思案したことでしょう。
ボロ負け壊滅敗走の報は先に入っていたといいます。
①②③が義景屋敷。②③は初夏の図です。バックか一乗谷城。
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