毎度木曜日の大量新規感染者数の更新から「さぁ今日は・・・」などと不謹慎ながら期待にも似たわくわく感が習慣となりつつあります。
東京が感染者を培養し首相が「Go To 感染 キャンペーン」にて地方に感染者を広げるという構図が出来上がりつつある今、遂に昨日東京都の医師会から「いい加減にしろ!!」の如く発信がありました。
そもそも政策側の「専門家の意見を聞き適切に判断」等の台詞は既に耳タコになっていましたが、何の事はないあの「感染キャンペーン」の強行について政府側に都合のよろしいメンバーで構成されていそうな「新型コロナウイルス感染症対策分科会」なる会合の医療関係代表の理事が、あの強行については実のところ「Go To~は延期した方がいい」と進言したことをぶっちゃけていましたね。
要は「聞きます聞きます」と表では言いながら感染のバラ撒きキャンペーンをウラでゴリ押ししていたということがわかりました。茶番もここまで酷いとはね。
その会とは一線を画す都の「医師会」の昨日の声は「(新型インフルエンザ等対策)特別措置法を改正して、法的拘束力と休業補償のある休業要請をするべき」というのが主旨。
それには「国会を今スグ開くこと」なのですが、その声が届くのかどうかまったく疑わしい。
「今が感染拡大を抑える最後のチャンス」とまで強い口調で指摘していましたが・・・馬の耳に念仏。ソーリ殿にはヤル気というものをまったく感じません。
さて、昨日から「奈良県史7 石造美術」からその分類の1を記しました。
普通に考えると何故にして「奈良であって日本ではない」のだというところ腑に落ちないという意見があるかも知れませんが、そもそも「日本の歴史」の始まりといえば奈良明日香でしょう。
まさに大陸からの新鮮、仏教文化が開花した地です。
大陸から招へいした石工(「石作部」いしつくりべ)たちは当然に奈良を中心に活動するであろうし、またその手を入れやすい素材-凝灰岩-の産地が近く入手しやすかった点もありますが、その文化文明が日本に行き渡るための発祥地であったのでした。スタートが早ければ積み重なる歴史も深いもの。
当然に古くてすばらしい遺品というものはやはり奈良に集合しているのです。
それから「都」の遷都の連続によってそれらの御裾分け、伝播があって地方に広がっていくのですが、奈良を語ればそのすべてがわかってしまうという事情があるのです。
東京に都に移ったとはいえ江戸幕府開設から400年と少し、奈良明日香と比較すれば1000年以上の文化堆積の差があるわけですね。
よって「石造美術」の本家本元といえば奈良。
「奈良県史」の「7」と石造美術に特化して纏められたその書はいわば墓場放浪のバイブルといっても過言ではないのです。
本日は昨日の層塔に続き宝塔についてです。
石造美術の分類 「奈良県史7 石造美術」
清水俊明 奈良県史編集委員会
2 宝塔
「法華経見宝塔品」に、釈迦が末世において法華経の教えを説く者の心構えと、その教えを受ける者の功徳について説いた時、目の前の地上から光明燦然とした七宝造りの宝塔が忽然と湧出し、天空高くそびえ立ったといい、塔中にいた多宝仏が釈迦の説法をほめたたえ、塔中の玉座に釈迦を招き入れて半座を分かち、釈迦・多宝の二仏が宝塔中に並座したと説かれている。
釈迦の説いた法華経の教えが真実かつ真理を説いたものであることを多宝如来が証明したことであり、宝塔は真理の全相を形であらわしているのだという。
もともと、宝塔という言葉は塔の美称であって、三重塔なども宝塔と呼んでいたようで、奈良県桜井市長谷寺所蔵の銅版法華説相図(奈良時代前期 下図 )にも、中央に三重塔が浮き彫りされ、塔中に釈迦・多宝如来が並座している。
この塔形は、ここでいう宝塔の形式とは異なるものである。
宝塔は平安時代になって、密教寺院の建築物として造立されるようになった。
石造宝塔も法華経を説く天台系寺院で造立されたようで、平安時代からその遺品がある。
宝塔は基礎・塔身・首部・笠・相輪からなり、層塔と異なるところは
塔身の平面が円形で造られており、塔身の上部に首部があるところである。塔身の側面は素面である場合と、扉型や鳥居型をあらわし、時には扉を開いて多宝・釈迦の像容、または種子があらわしているものがある。そのほか四方仏を梵字で配置した例も見られる。
上段画像は近江・京都の宝塔で失礼。⑥のみ京都です。
京都も近江も都の存在した奈良に準じて歴史の深さを感じる地です。
①金森懸所宝塔
②蚊野御料神社宝塔
③西明寺宝塔
④金剛輪寺宝塔
⑤守山福林寺佐々木高綱塔
⑥六波羅阿古屋塔
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