結局は「Go To」の件、前倒し強行する愚かさに気づくのかどうかはわかりませんが、先日突如として決めた「東京排除」によって大量発生したキャンセル料についてはお国が支払うということで落ち着きそうです。
キャンセル料とはそもそもドタキャンのペナルティですが、思いつきで「Go To」前倒しとやはり思いつきで行った東京のみ排除
のそのペナルティは国民の税金が原資。
バカバカしい「思いつき」の結果発生したペナルティを国民に背負い込ませて、のうのうとしていられる神経はさすが政治屋さん。無用アベマスクといいこれでは先のことが読めない無能の人たちと言われても仕方なし。
そして最近はマスクの装着はさすがに息苦しいものがあります。読経の際のそれはなにしろズレて困ります。
オシャレ風スポーティなマスクなど着けたくありませんし・・・
30秒おきにそのズレを治さなければなりませんね。
気休めであってそのズレに関してはどうにもなりませんが、心地よい気分にしてくれるグッズとして奥方はハッカオイルの塗布を勧めます。
それも良さそうですがそういうことならとお得意のヒノキオイルを出してみました。まぁまずまずでした。
さて、私の思う「本能寺」の原因となっった「明智光秀の心中」について結論を記せば①日本の仏教文化保持のため②本願寺存続のためということになります。
大きい意味で光秀が信長の横暴に耐えられなくなったということですが、まぁ単純に①②だけではなく色々な彼の思いが積み重なった結果だとは思います。
光秀は延暦寺の焼き討ちから対本願寺戦に至るまで、信長の寺社(日本の伝統文化)壊滅の戦働きをしていますが、必ずしもそれは彼の本意ではなかったはず。
比叡山はフロイスも表現している通り「大学」として日本の中枢にある仏教を基盤とした国立の教育機関であり、日本の歴史文化の中心地でもありました。
天皇と貴族階級の庇護もあって政治力も絶大になったことは信長に仇する敵対勢力と(直接の理由は浅井・朝倉への協力)みなされるに至ったのでしょうが焼き討ち(元亀二年1571)という暴挙にはあまりにも違和感があります。
真っ当な当時の知識人たる光秀がその件も相当な不信感を抱いたに違いありません。
そして本願寺は九世実如さんの時代に後柏原天皇の勅願寺となって11世顕如さんの時には門跡寺院になるなど、底辺にある民衆ベースでありながら、皇室のお墨付きを得るまでに勢力としてもやはりフロイスが記していた通り一国の君主と見まがうほどに強大化したわけですが当初の信長による「石山本願寺を明け渡せ」も唐突過ぎて違和感を禁じ得ませんでしたね。
やはり双方ともこれまで記しました通りカトリック宣教師たちの信長への入れ知恵があったように感じます。
それら私同様の違和感の中、長年耐え続けてきた明智光秀に一つの踏ん切りのようなものを与えたのが十二世(東本願寺一世)の教如さんであった可能性が強いかと。
秀吉が一旦教如さんの十二世を承諾したにも関わらずそれを反故にしたのもその雰囲気(教如さんのスジ)を微妙に感じていたかもしれません。
ここで新しい史料でも出てくれば面白いのですが・・・
画像は京都市街を北上周山に向った時のもの。
明智光秀が天正七年にこちらに入ったことは史料によって確定しています。
以前ウッディ京北(場所はこちら)で購入したひのきオイルについて記しました。
あの北山の道の駅は亀山から横移動する際の中継点でもあって私は3回ほど寄り道しています。
杉の木だらけで花粉に弱い人の春先の移動は苦痛になりましょう。
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小山昭治 (火曜日, 21 7月 2020 08:51)
本願寺も「一国の君主」のような振る舞いがあったのではないでしょうか。
門徒が多かったこともわかりますが、「君主」のように見えたということはそれなりのふるまいもあったのではないでしょうか。
上に立つと下々のことよりも権力維持に進むもの。そんなことはありませんでしたか。
今井一光 (火曜日, 21 7月 2020 10:09)
ありがとうございます。
フロイスの本国への「報告書」での表現で私からすれば外来異教徒による既存仏教への揶揄罵倒の類かと。
それは信長を後ろ盾にスペイン国王の意向を実現するためであったことをブログでも記してきましたが、まぁ「君主」という言い回しは外来の人たち、または国内敵対する人たちにとってはそう見られても致し方ないかもしれません。
フロイスは「偶像」と私どもにとって驚くべき物言いをしていますが、そちらは御開祖から延々と続く阿弥陀信仰に対する冒とくでもありました。そのスタンスは信長も同様でした。
当流第一の専修念仏、一向一信阿弥陀如来の精神を踏みにじるものであって、その件本願寺として到底承服できず徹底抗戦となることは必定です。
信仰を集める阿弥陀信仰の主、顕如さんの下に集う門徒衆の堅固な組織を崩そうと(寺内町繁栄の利権を奪い―宣教師はカトリック布教のために)画策するわけですがそれがなかなか実現できないところから出た表現でもあったかも知れませんし意味は浅く組織のトップのような意味合いかも知れません。
時は戦国時代、諸勢力と対峙、法灯を護持し組織を守るための武装闘争はやむを得なかったことと思います。
あくまでもその闘争は親鸞聖人の系譜と正信念仏偈の守護であったわけでその国主、君主の表現はそれに敵対しようとする者からの感じ方であったのでしょう。
現在は「門主」という表現になっていますが私はやはり一門徒としてその方を敬い奉りますので、他者から見れば「君主」の如く見えるかも知れません。
また歴史は横暴で無知な「君主」というものを淘汰するところを教えてくれています。
今、この時間に一定の組織として残っているということは顕如さんは「君主」ではなかったといえるのかも知れません。