当静岡でも島田、藤枝(熱海で起こっても怖くない・・・)と立て続けにコロナ陽性者が連日発生しました。
いずれも「新幹線利用」「東京・・・」という行動形態がわかっていますので今のところ私はいつもの「どこ吹く風」。
いずれいつかはそのような態度に「しっぺ返し」が来ると思うのですが人間というものはそもそもバカな生き物ですから、我が身に及んだ過酷な苦痛を感じた時「ああすればよかった、こうしておけばよかった」などと後悔するのでしょうね。
最近はあまりの東京ほか各地から出る数字にほとほと「よくもまぁここまで放ったらかしにして何もしてこなかったものだ」と政治屋どもの茶番に対して呆れつつ、嘆息ばかりの日々を送っていましたが先週といえば国会で久しぶりに痛烈爽快な答弁を拝見させていただきました。
もっともその方は国会議員ではありません。
7月16日に開催された参議院予算委員会の閉会中審査でのこと。キレキレ忖度ナシの専門家、学者さんの声でした。
そちらに招かれた東京大学先端科学技術研究センターなる組織を率いる学者、児玉龍彦名誉教授です。
氏は①直ちに法改正のために国会を開くなりしてPCR検査を進めるために各規制を撤廃し②クラスター対策とガイドラインに拘っているところを改めてエピセンター対策に舵を切り③検査数をあげて囲い込みをしないでこのまま何もしなかったら目を覆いたくなるほどの状況になる・・・と警告していました。
要はこれまでの国の施策が失敗だったことを指摘したものですが、見ていて気持ちいいものがありました。
特に気をつけねばならないことは氏が仰っていました通り、「新コロ」は感染直後~発症前のまさに「私は大丈夫」といった時期に他者への感染を強く発するということです。
ということは最近流行り出した入室入店前の体温検査では感染者の一番怖い人はすり抜けてしまうということ。
安心を得るための一つのグッズですが、万全では無いのでした。
宮崎市郡医師会のブログに掲載がありましたのでリンク先を貼り付けます(「エピセンター<感染集積地>の制圧」)。
東京大学の先生というと大阪大学・京都大学とは一線を画しているよう(東京と言えば「感染研」を代表する官僚的支配的梗塞的発想の権化の如く)感じていましたので児玉氏の指摘とその言葉には驚きまたまさに溜飲が下がる思いでした。
ところが「経済界」を背景にするとき、また議員というエライ方たちはそういった声に聞こえないフリをするものです。
歴史は政治がマヌケだと国民が苦痛を被ること、毎度知らせていますからね、
しっかりとこういった意見を聞いて欲しいと思うばかりです。
さて、フロイスがそのスペイン国王の意向(アジアの富を収奪-最終目標は中国)~それは一言で植民地化といいますが~その布石を打つ役柄こそが宣教師たちによる日本人の心の支配でした。
その野望を託し、まずは既成のわが国の歴史文化たる神仏を「悪魔の偶像」として破壊する「鞭」として働いたのが織田信長だったわけで信長の天下統一の完成がイエズス会浸潤のステップアップという構図となるのでした。
そこに天正十年の本能寺による目的の頓挫。
カトリック宣教師はじめこれほどの焦燥感と困惑と怒りは無かったでしょうね。要はあと少しのところで当初の目的が達成するようなところでした。
ある意味「日本の仏教文化」継承が既の所で断たれるところでもあったワケですね。
ということでフロイスの明智光秀の記述がありますので見ていきましょう。
フロイス日本史第五十六章(5-P143)
「信長の宮廷に惟任日向守殿、別名十兵衛明智殿と称する人物がいた。彼はもとより高貴の出ではなく、信長の治世の初期には公方様の邸の一貴人兵部大輔(細川藤孝-幽斎)と称する人に奉仕していたのであるが、その才略、深慮、狡猾さにより信長の寵愛を受けることとなり、主君とその恩恵を利することをわきまえていた。殿内にあって彼は余所者であり、外来の身であったのでほとんどすべての者から快く思われていなかったが、自らが受けている寵愛を保存し増大するための不思議な器用さを身に備えていた。
彼は裏切りや密会を好み、刑を科するに残酷で独裁的でもあったが、己を偽装するのに抜け目がなく、戦争においては謀略を得意とし、忍耐力に富み、計略と策謀の達人であった。」
こちらの光秀評の最初に3つの語「才略、深慮、狡猾」と並びました。才略と深慮の2つはまさに当人の性質を表す誉め言葉。
そして後に続く「信長の寵愛」を受けるにあたって当然の如く素質と感じますがその3つ目に控える「狡猾」の語は前2つの語とは遥かに人としてネガティブを連想する言葉ですね。
フロイスの感情、本音の部分が3つ目の語彙でついに現れた・・・という感じがします。フロイスが如何にしてその光秀の性質を調べ上げたかについては不明ですが普通で言えば配下の者を信ずるにその「狡猾さ」に関してまずは忌避すべき部下の性質でそれからすれば如何に信長に「見る目が無かった」ということをも言い表しています。「ズル賢く悪辣」を思う人をはたして重臣として用いるか・・・です。
そしてそのあとから爆発したかのように光秀こそいかにロクでもない人間かの言葉が続くワケですがこの件、宣教師たちの安堵安直な道のりを途絶させ大きな難局に陥れることとなった光秀への恨み節の語句が躍っているように見受けられます。
そのあとに坂本城の記述と信長にはその光秀の本心を見抜けなかったという記述があります。
「また、築城のことに造詣が深く優れた建築手腕の持ち主で選り抜かれた戦いに熟練の士を使いこなしていた。
彼は誰にも増して絶えず信長に贈与することを怠らず、その親愛の情を得るためには、彼を喜ばせることは万事について調べているほどであり、彼の嗜好や希望に関しては、いささかもこれに逆らうことがないよう心掛け、彼の働きぶりに同情する信長の前や、一部の者がその奉仕に不熱心であるのを目撃して、自らはそうではないと装う必要がある場合などは涙を流し、それは本心からの涙に見えるほどであった。
また、友人たちの間にあっては、彼は人を欺くために七十二の方法を深く体得したと吹聴し、かつ学習していたが、ついには、このような術策と表面だけの繕いにより、あまり謀略という手段を弄することに精通してはいない信長を完全に瞞着し、惑わしてしまい、信長は彼を丹波、丹後二か国の国主に取り立て、すでに破壊した比叡山の大学(延暦寺)の全収入とともに彼に与えるにいたった。そして明智は都から四里ほど離れ、比叡山に近く、近江国の二十五里もあるかの大湖のほとりにある坂本と呼ばれる地に邸宅と城塞を築いたが、それは日本人にとって豪壮華麗なもので、信長が安土城に建てたものに次ぎ、この明智の城ほど有名なものは天下にないほどであった。」
この七十二の人を欺くための方法という何やら意味深なところは昔から光秀を「詐術のデパート」の如く嘲る陥れようとするフロイスの気持ちが表れているところでもありますが、私はこの「72の方法」とは最近になっていわれるようになった医師としての光秀の外科的対処法の如きものだったかと考えます。
フロイスの聞き間違いか訳違いから発展したフェイクか最初から悪意でもって記したか・・・とんでもない人間というものを表現しているところです。なお72という数字を真に受けてはイケませんね。こういう場合は「多くの~」程度で。
そして今は城址という面影さえ残さない坂本城が「安土城に次ぐ」ほどの壮麗さだったというところは特に興味深いところ。
安土城の壮麗、壮大さについては十分承知していますがそれに比肩するが如くの評価です。
今はただ湖岸に石垣の残骸らしきものが残るだけで「城址」であるということが信じられないほどに何も遺っていません。
とにもかくにも信長というデウスに代わる「鞭」が居なくなったことによりその先を見越していかなくてならなくなったのですが「明智ではなく秀吉」を選択した理由は(デウスの配下~洗礼を受けた~高山右近を秀吉側へ同調させるよう根回し)やはり秀吉の方が取り入りやすかったこともありますが、信長配下の時代に明智光秀のキリシタンへの関わりが冷淡だったことも考えられます。要は既存の日本の仏教文化の破壊からの再興に力点が移っていくところを微妙に察知したのかも知れません。
しかし山﨑の合戦で秀吉軍が勝利したとしても次の天下人に秀吉が決まっていたワケでもありませんから、単純に光秀が信長にとって代わることは宣教師の布教活動に不利を感じ、ここで抹消する必要にかられた(高山右近への懐柔)ということかも知れません。
画像は坂本城址より。湖の対岸を。最後の画像は西教寺にて。
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