梅雨という季節の一大イベントですから、嫌らしい雨続きと湿潤の不快について文句はいえませんが、そういう日の法務は色々と頭を悩ませます。
朝から本降りで覚悟を決めての先方ご自宅への訪問でしたが寺を出る間際になって小降りに。
こりゃあ、しめた・・・という具合に機嫌よく時間が過ぎていけば、結局最後の墓参前には完全に雨は上がっていました。
「ありがたし」以外の何物でも無い一日でした。
一旦は、「ズブ濡れ」まで覚悟している身としてはまるで-100点のところから+100点を戴いたような感覚でした。その差200!!
夜のテレビ小僧はNHK9時からの「戦国」。
宣教師による「全世界をキリスト教徒に・・・」という策略という観点から「戦国」を紐解こうとした番組で切り口として今まで無かったものです。
よってとても面白く視聴しました。
再放送がきっとあるでしょうから、歴史好きの皆さんでしたら是非に視聴をおすすめします。
日本国内における彼らの諜報戦についても凄まじいバイタリティを感じましたが、キリスト教布教許可と戦争物資(鉄砲と弾丸)の取引の相手に見込んだのが信長だったという着眼もまさに的を射ていたわけですからね。
信長が石山本願寺を執拗に追い落とそうとした背景が宣教師の記述「日本の坊主たちはキリスト教布教の障害」という記録から「これはなるほど」と思ったところです。
要は信長を使って日本をキリスト教国家に仕立て、ゆくゆく統一されたその軍事力を利用して中国を侵略(アジアを制服せよ―フェリペ二世)しようとする国王の方策の実行組織が宣教師などのキリスト教布教グループだったのでした。
勿論、アジアの富の奪取が最終目的です。
富の収奪のための「心の支配」が目的だったのです。
余談ですが番組では石山本願寺の象徴、顕如さんの画像は例の石川県立博物館のものを使用していました。
あの画像は如何にも強そうですからね。
ということで信長の日本の仏教勢力を一掃しようとした行動とキリスト教宣教師の計略があったこととを思うと、明智光秀による信長への謀反は本願寺含めて既成仏教集団との利害は完全に一致していることがわかりますし、光秀はこれからのキリスト教勢力の傀儡となって信長に牽引される日本が中国(明)侵略の駒とされることによる国内疲弊、死屍累々の戦争の災禍を止めてくれたのかも知れません。
いや結果的にそうなったのです。
この番組を見て、映画「沈黙」の如き、キリスト教徒への異常な弾圧抑圧とその前の秀吉の禁教令から執った無慈悲なキリスト教徒への行いに対して大いに同情を抱いたものですが、それらへの厳格な対応に関して、もしかするとそれもやむを得なかったのでは・・・と心が動きました。
何故ならば、植民地政策によって侵略した国々へのキリスト教の布教にあたって、民衆の「改宗」作業は絶対となりますが、それを拒む者に対しては、その日本国内でキリスト教徒に対して行ったような残虐行為と同じことを彼ら宣教師たちは行っていたに違いないからですね。
現実、彼らは植民地化した国でそのように動いていました。
やはり、信長の宣教師との共同計略に関して「逆に利用してやろう」という考えがあったとしても継続してキリスト教宣教師の「布教画策」を許容し、日本全国の信長による支配が完了していたとすればひょっとして今の仏教施設は勿論、その文化そのものの存在も危ぶまれることになっていたかもしれません。
番組では高山右近への懐柔工作も指摘されていました。
彼らによるキリシタンに改宗させた大名の数々を見てもこの国の宗教を使用した「心の支配」から始まる「すべての支配」を目論んでいたことはまさに否定できないことです。
キリスト教に対する見方が大いに変わった番組でもありました。来週の第2回目も見逃せません。
さて、その宣教師の野望(信長を動かして最終的に中国の富の収奪)をまず打ち砕いたのが明智光秀ということになります。
光秀の本能寺の件が如何に私ども本願寺にとってどれほどありがたかったことだったかは幾度か拙ブログで記していますが、先日立ち寄った可児の大河ドラマ館で見た光秀関連図の紹介には「明智光秀の敵」のパネルに「石山本願寺」と記されていました。
光秀は本願寺と戦っていますがそれは光秀そのものの「敵」ではなく信長の「敵」であって信長の戦駒として光秀が動いたということです。
そこのところ見誤っては「敵は本能寺」の真意が(私の勝手な意見ですが)わかりにくくなってしまいます。
ここで一つその本能寺の理由の推測として「宣教師の野望を砕き日本の文化を守るとともに人々の平和を望んだ」という項目が一つ増えました。
そう考えればまさに「麒麟」になった人かも知れません。
日本と日本人を救ってくれたのかも・・・
さて、明智光秀の産湯の井戸址は以前山県市のものを記しましたがこちら可児にも同様にあります。
既に改変されていて今となっては忘れ去られていたような場所のようですが最近の光秀再評価と町おこしブームから地元に残る伝承を掘り起こして看板が建てられています(場所はこちら)。
最後の画像が元の屋敷と井戸があった辺りとのことですが、その背後の山が明智城のある台地。
この樹木の1本は元あった場所から移植されたといいますが、それ以前といえば違う大木があったそう。
そして近くにある自然石を使った石塔と下に散らばる五輪塔残欠に私は惹かれました。
わからないことばかりですが、この石仏は「すべてをご存知」・・・と合掌。
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