黒人男性が白人警察官に殺されたことから始まったその「人種差別問題」はアメリカ社会に大風を吹かせています。
コロナによる不安とつまるところの格差社会への不満が爆発しているという感があります。
傍から見ていて(ただ見ているだけというのは卑怯なことと「声を上げるべきである」とお叱りを受けそうですが・・・)その運動というか時に過激暴徒化した人々の破壊と略奪の画像を見て日本ではさすがに起こりえないのでは・・・と思うものです。
叔父とその件話している中、日本史上「その手のこと」といえば「打ち壊し」があってその話題に。
その破壊活動と言えば画像で見たような自利が発露した暴徒の略奪行為は無かった・・・
要は日本のその「打ち壊し」には大義とモラルがあってその「やり方」についても一定のカタチがあったというのがその話題。
これはやはり昨日記したような「手洗い」文化、最近で言えばマスク装着文化の如くで、その顕著な行動の違いと同等だとも。
「打ち壊し」の相手としては今でいう官公庁の如くの施設ではなくまずは「米屋」か年貢を現地徴収する「庄屋」です。
「米屋」はコロナ禍でもマスクのそれがあったが如く買占めで、結果的に市場にそれが出回らずに価格が高騰するという自利100%の所業。
そして「庄屋」は現地で年貢を集めるワケですがその小作に対する年貢の徴収に関してはまず、大抵の場合「お目こぼし」の余地があったといい、お上の指定する「厳密」からはある程度のバックというか、余裕を持たせたと。
コレは「庄屋」側からすれば憎まれず大きな反発から逃れるための社会のシステムであったわけで、それが米屋による買い占め等が発生し、その徴収が厳密となった場合にその「米屋と庄屋」が襲われたというのが「打ち壊し」。
それにも暗黙のルールのようなものがあって「打ち壊し」の
①庄屋の場合は他地区の住民が家を破壊し近隣の者は他へ。
②米屋の場合はコメの略奪は行わず、家屋の破壊とコメを通りにぶちまけるのみ。
その暴動は首謀者は勿論検挙されますが、壊された者もその罪を問われることになる・・・というのがその風潮。
要は商いにしろ権威にしろ民に対する慈悲、「利他」の心が無いことを見透かされたら暴動が起こりえたのでした。
また、いずれの時代もそのように民への配慮が明らかにあった米屋も庄屋も民の強い主張には合わなかったのでは・・・というところです。
昔から「買い占め」はこの国民は嫌悪の目で見ていたワケで一番に後ろ指を差される行為でした。
マスクを買い占め、多くを抱え込みながら泣きを見ている業者が数多いらっしゃるようですが、襲われないだけ良かったと思うべきですね。
いつの時代も「利他」の精神が欠けて皆が自利自利で生きれば社会の捻じれに拍車をかけてしまいます。
さて、昨日の浄瑠璃寺浄土庭園の池の畔には二基の灯籠が建っています。
一つが三重塔のある此岸側、一つが本堂阿弥陀如来前の彼岸側です。
本堂側の近くに昨日記した石臼が見えます。
二基のうち、彼岸側の石灯篭の「バランスわるし」と川勝政太郎氏の評価が低いのは「火袋」に若干高さがあるような。
どちらも南北朝期のもので同時期に納められたようです。
此岸側三重塔下の灯籠の中節に文字が彫られていますがそれが
「為法界衆生 貞治五年1366十一月造立之者也
願主阿闍梨祐実」
六角石灯篭の火袋の〇窓は中に灯がともると蓮の花をイメージさせるようその下に茎部分を彫り出しています。円座側面にはその蓮の種子も。浄土の花として蓮は大いに付き物ですね。
とにもかくにもこの石灯篭の笠とその上にのる宝珠の完備はすばらしい。
笠の周囲の宝篋印塔の隅飾りの如くの立ち上がりの飾りを「蕨手」といいますが、それは二基とも完璧。
石灯籠は石塔類と同様崩落しやすく上部のパーツほど壊れやすく失いやすいもの。
各地で痛んだ石灯籠を見させられています。
これらの灯籠がこれまでそういった災難には何度かあったことでしょうが、うまいこと致命的損傷は免れていることでしたら奇特なことですね。
後補がなければ約700年無事に建っているということですからね。
「為法界衆生」この精神が誰にとっても不可欠なこと。
今の傾向といえば・・・「為現世自利益」。
自国第一主義に白人至上主義。キリスト教の教えとはそこに収斂するものなのでしょうかね。
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