下之坊の本堂裏を注意深く覗き見る 聞法大事

息子の横浜では32℃のドP感の晴れということで当地相良の雨が信じられないようでした。

午前の法事のあとに横浜の晴れ具合、真っ青な空の図を送ってきましたが私もマスク装着のうえの読経の困難さは十分承知するところですので、先方宅での法事は同情した次第です。

 

夏期において口元を押さえての発声の連続は、その携帯は必須であることはわかるもののこれからの季節、一体どうなることか・・・少々の不安が出てきたところですが、ひょっとして坊さんの読経中の突然死など、もしかしてありうる話かも知れません。

 

今年はエアコンの密閉空間はタブーということで、外気の流れを設けるよう心掛けていますので室温は高め。

扇風機をブン廻して・・・はローソクの火が消えますのでまず無理。私もそのお気遣いに関しても丁重にお断りしますが・・・。

しかしこれからはそうも言ってはいられないかも。

 

なにせ「マスクの夏」の法事は苦痛の時間になるでしょうね。

参列者も勿論ですが「声出し」は特に。

どの程度の負荷がかかっての酸欠具合、重篤な何かの症状の発現があるかなどまったく未知のこと。

いずれその警鐘として何か言われるようになるのでしょうが坊さんは気合を入れれば入れるほど自分の首を絞めることになりますので、「手を抜く」という荒業を使うかも知れません。

「ヤル気」を感じられないペース配分ばかり心がける法要が広がれば人々のその関わり方、法要の在り方にも影を落としていくかもしれませんね。

 

ぽつぽつと法事の予約が入りだしました。

ここは我慢一筋、この夏を乗り切ろうと気張っていかなくては

 

昨日は「ピストル堤」なる語を記しましたがその堤氏といえば滋賀湖東の出身。となればちゃきちゃきの近江商人ということでそういう観点からすれば「天秤棒」とは違いますがその「ピストル」も親近感が湧いてくるというもので。

時代が時代、そんなやり方が存分に発揮できて一代で財を為せるほどに力量を発揮できたということなのでしょうが、今の時代そんなピストル手法が通るワケもなく。

普通にコロナ禍を俯瞰してみれば昔ながらのビッグサイズは「凋落」に尽きるのでしょうがね。

 

まぁ富裕層はこのコロナ禍によって財産を増やしているといいますが、社会は変化の途をたどっていると考えると新しい何か、これをチャンスと「前髪」を掴もうという虎視眈々もあるでしょうね。

要は既成・既存の発想を投げ、壊していく勇気と新しい何かの様式、方法を探り当てるという大転換の時代が来たのかもしれません。ピストル不要の何かを。

 

と言いながらもガチガチの歴史と文化の連続の中に生かされている自分がいますしそれに関わるお仕事を与えられています。

もっともその「仕事」について仰々しく言い放ったものの当流のそれときたら「聞法」の一語に尽きます。勿論「修行」などの語はありません。

 

「聞法」などと記せば「なんだそりゃあ」と訝しく思う方もおられるでしょうが、そこに「気づき」が生まれるのです。

聞法なくして気づきはなしということにも。

よって困惑からの脱出、新しい発想はとにかく「聞くこと」と言うことに尽きるわけで。

ちなみに厳密な「聞法」と言えば「仏の教えを聞く」ということになりましょうが、今「人の話さえ聞かない」「我が道を行く」風の天狗さんが増えているということです。それは慎むべきこと。

そんな世に合って自身見つめることができれば、財物の蓄積はともかくとして人身成就となるのでしょうね。

何か聞く機会があれば一つ耳を澄ましてみようというのも一考。

 

さて、婆羅門杉の寺の4回目になります。

あの室町期に建てられたといわれる味のあるお堂のウラ側を耳を澄まし目を凝らして覗き込みます。

すると裏の崖には石仏の顔が。

特に石仏が声を出しているのではありませんが「お~い ここ、ここ」と聞こえてくるような。

不動明王らしき仏で、何時のものか何故にこちらにあるのか分かりません。不思議な画として記しました。

 

最後の画像は池のほとりの石臼。古そうです。

この情景は当尾の浄瑠璃寺に奈良円成寺でも見ました。