昨日の東京10人。神奈川は3人。東京は7名も感染経路不明。
ブラジルの感染者数も死者数も半端ないですね。私の従妹はあの国で看護師をしていますが、おそらくてんやわんやでしょうね。
地元相良の風景は解除後も解除前も少なからず我が寺の境内では変化なし。
時々お会いする墓参の方が覆面姿のようにガッチリとマスクで覆っているため誰だかわからないまま会釈するという日常。
中にはサングラスまでしている方があってそうなると「どなた?」と頭の中でぐるぐる記憶を呼び戻そうと努力するだけ無駄。
私の方といえば境内はノーマスクですので、私が街中を歩いていてノーマスクの人を目撃した際「一体何者?」と「自粛警察」感満載の興味本位が起こるほどの違和感を得ますのでそれと同等のものを皆さん感じているのではないでしょうか。
心の中ではお日様の下、紫外線降り注ぐ中、「マスクは要らないだろ」と思いつつ淡々と今、本堂脇のスロープの塗装作業を行っています。
風雨に曝されてイタみも出てきたことと、これまでのクレオソート系の木材浸透タイプのオイルの塗布では臭いがキツイこともあって水性で表面に塗膜のできるタイプに変えました。
この色は先日来仕上げた外塀の木質部分と同じです。
塗装というものは放置していればどんどん素材が朽ちて見苦しくなるばかりですが、塗装したとしても当たり前の景色になって大して見栄えが良くなるという実感がわかないもの。
地味な仕事です。
さて、大河ドラマでの明智光秀ですが、彼の若いころのことは謎に包まれて推測ばかり。よってドラマはドラマ(劇)で一言で創作ということになります。
ドラマ冒頭では土岐頼芸といえば鷹の絵を書いているところからでしたが、大桑城の土岐氏というカタチではなく鷺山城に隠居させられているといった時期。
視聴者からすれば大桑城というと道三が息子高政の稲葉山城へ向かってその城から侵攻した風に描かれていましたので、紛らわしいのですが、そもそも大桑城が美濃守護(クーデターによる傀儡守護の感は否めませんが)の居城でした(頼芸の兄の頼武を道三の父-長井新左衛門尉-が排除)。系図概略こちら。
元は金華山周辺(枝広館)に守護屋形を構えていましたが天文四年1535に長良川が氾濫し街区が壊滅したために大桑城に移ったといいます。
そののち金華山周辺は道三が長井氏(美濃守護代家臣)を滅ぼして政権を術中に収めつつはありましたが頼武の息子の頼純のバックに朝倉氏(頼純の母は朝倉貞景三女)に近江六角までついて美濃は永らく内戦状態になったワケです。
天文八年1539に頼純と道三が後ろにいる頼芸と和睦となったそのあたりからドラマがスタートしたということです。
頼純守護就任と道三の娘「帰蝶」(一応はその名称を使用しますがまずその名では無かったはず)を婚姻成立させて、その後番組の通り「毒殺」(これも想像)とあいなったワケです。
考えてみると織田信秀による稲葉山城攻めばかりクローズアップされがちですが尾張に近江に越前と三方に包囲されてよくもまぁ道三は立ちまわっていたものだと感心させられます。
もっとも本気度としては尾張方が一番だったのでしょうが。
一番考えてしまうところは明智光秀の立ち位置。
彼の主家は当然ながら土岐家であってその本家の当主争いと斎藤道三の台頭があって本当の所、どちらに片足を置いていたか・・・というところ。番組のように斎藤道三にそうは近い位置にはいなかったと思いますね。
あくまでも光秀の「土岐は今・・・」の通り土岐家方にいなくては・・・と。
あっさりと美濃を去るところも主家の土岐家滅亡があったからでしょう。
さて、先日記した大桑城の四国堀。
そのすぐ先に「戦死六万墓」なる墓碑が建てられています(場所はこちら)。
これはインパクトある名前が付けられていますが、それだけ多くの者たちがこちらで屍を晒したということでしょう。
土岐氏両名の和睦のあと、そもそも斎藤道三の台頭に不満を抱く盟主土岐氏を掲げる勢力がこちら大桑城に集結したところを斎藤道三が襲来、大きな戦闘があったのでした。
一つの国がまとまらず多勢力が台頭して国内無駄死を繰り返すというのでは他国の侵食もありますね。
何より憎しみが国内蔓延します。
南泉寺の仁岫和尚による建碑が元のよう。
この竹林全体が墓域のように感じます。
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kurikuri (水曜日, 27 5月 2020 00:32)
大河ドラマは、フィクションの部分が多いとはいえ、もしかしたらこんなだったのかなと思えてしますからすごいですよね。ちょっと服装の考証もかなり脚色されてますけど。そして、どこの国も三すくみで身動きがとれないのに、織田氏が統一を進めたのはやはりすごいですね。
今井一光 (水曜日, 27 5月 2020 08:10)
ありがとうございます。
私も「四国堀」の四国に近江六角など、どれだけの勢力が名家土岐を守りたかったの意向を感じ、またその意がかなわなかったことに時の流れ、変化というものの恐ろしさを感じます。
その初期の微妙な流れを感じ取らないで「未来永劫」を夢見ればそれは儚いものに変わるということですね。
尾張の「うつけ」によって美濃も近江も越前も嘗め尽くされてしまうのですから。
大河番組では朝倉義景の台詞、「深入りして面倒にかかわりたくない」の語に象徴されていますが土岐も朝倉も六角もあの時本気を出して協力し道三を駆逐していれば織田信長の台頭もなかったような気がします。
安泰は隣国守護同士の協力が不可欠であって他国進出の欲望を抑え自国の繁栄に注力し家督争いにならぬよう方向性を事前に協議するなど準備があれば家中を纏められ(下剋上はナイ)少なくとも家は残すことができたかも知れません。
現代に通じるところ多々ありますね。