浄土庭園から見た浄土の方角 忍辱山円成寺桜門

昨日の東京は181人。

私は「都内の最新感染動向」なる東京都のサイトがあってそれを眺めています。ちなみにそちらには相談窓口に繋がる電話番号が記されています。

今、ここ静岡だけでなく日本中、いや世界中がこの東京の動向を固唾を呑んで見守っていますね。

 

昨晩はニュースの中で「破滅」という語彙を初めて耳にしました。まさかのまさか、2月3月のオリンピック開催を意識したどこ吹く風感あふれるまったり政策が懐かしくも思いますね。

厳しい熟語「自業自得」の語も頭をよぎってきます。

それでも「やってる感」アピールありありのうえ遅々として物事が進んでいかない指導者をいただく組織がこれからどう動くかをまた人々は見ているのです。

ここへきて主導権争いのように見える様はもはやシャレにもなりませんね。

 

既に3月初旬に5月中旬のお寺のバス遠足の中止を決めてから「2021に順延」を合言葉に前向きにいたワケですが、ひょっとすると「そこまで続いていたら」・・・その「破滅」から、再順延を考えておかなくてはならないかも。

 

そうもなれば「春の法要」に続き、盂蘭盆に報恩講、除夕鐘、正月そして春の法要と悉く中止になるということでもあります。

1年間の「自粛 移動制限」ということになればそれはやはり「破滅」に等しいかも知れません。

 

その語はカネ(経済)のことを主に表現しているのでしょうが、そもそもそれまでの間、人々が無事ですごすことができての思考でしょう。「命あっての」何とやら、死んでしまってはその破滅の日本さえ見届けることができません。日本の経済(カネ)などとともに死するワケにはいきませんからね。

 

その件「命よりもカネ」の論理がまかり通っていたのがその2月3月だったわけで。

「宣言」は一応は出され尻に火が付いた(・・・火宅)如くのあたふた振りは滑稽ではありますが、嗤ってはいられません。

我々は同じ船に載せられているのですからね。

 

さて、本日も円成寺再掲。

今年のバス遠足の予定では南山城散策からこちら円成寺が旅行の閉めのコースになっていました。

遠足のテーマは「浄土庭園と阿弥陀仏」でしょうか。

南山城の「笑い仏」(阿弥陀三尊摩崖仏)のご対面が1番のウリですが、岩船寺-浄瑠璃寺-円成寺それぞれの阿弥陀堂の位置と阿弥陀さんを拝観しようというもの。

 

尚、以前記した春日山の滝坂の道をそのまま柳生を目指して進めばこのお寺に辿れます。

以前の奈良遠足の際、自由時間にタクシーを飛ばしてこちらに来られた方たちもいらっしゃいましたが奈良市内からはそう遠くない場所になります。それでいて何がイイかといえば「人がいない」ということ。すばらしい寺であってそれを独占できる仕合せはありません。

 

この3つの真言系阿弥陀堂といえば共通に庭と池を前面が備える形式となりますが、このスタイルで一番に思い出されるのが平等院ですね。

池の向こう側(いわゆる娑婆)から池を通して手を合わせるパターンですが、ここ円成寺のその庭(浄土庭園)は街道側から拝することができますが庭と阿弥陀堂はフラットになっていないのです。山を削ったであろう段丘上にあってパッと見その存在はわかりません。木立の中に見える池を通して見えるのはやはり木々の中に顔を出した門のみです。

池は平安末期の造作されたものですが、明治期の「軽薄」によって池を埋めて道を通したりの件があったそうで、昭和も50年以降になってから修復の手が入ったようです。

 

その遠くに目立つ門が桜門。

入母屋檜皮葺、重要文化財指定です。

応仁文明の乱前夜となる文正元年(1466)に兵火によって焼失し

2年後の応仁二年の再建になります。

このような自然溢れる場所であっても戦火動乱があったというのは驚きですが、修復着手の動きは素早いですね。

 

拙寺では山門の修復の件、ちらほらと出てきますが、さすがにこちらの如き門は天地が逆になっても無理な話。そこで先日奥方がこの門なら「イイね」と「おい、写真撮っとけ」と言ったのがこの銅葺きの門。

道路際、境内庭園入り口東側にあるので「東門」と呼ぶそう。

以前あった場所からの移転ですが以前は瓦葺きだったそう。

軽やかな感じでよろしいかと①。

 

②は東門入ってスグ、桜門を謡った句碑。

最後の画像はバス停の「忍辱山」(にんにくせん)の名称。

奈良在住の方なら当たり前の地名ですが、坊さんならその「忍辱」は読めても「山」を「せん」読みはできません。

 

この「忍辱山」(にんにくせん)が円成寺の山号になっています。 

 

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コメント: 2
  • #1

    がつお (日曜日, 19 4月 2020 13:39)

    私もそのサイトを見ていますが、おとといになって検査件数がいきなり増えたのでびっくりしました。(保険適用分を加算したそうですが)
    ただ、東京の人口一千万人に比して今のところ陽性確定者は三千人弱で未確定者が百倍いたとしても高々3%の罹患に過ぎず今の緊急事態宣言で一時的に減少したとしても解除と同時に人の流れが戻れば元の木阿弥ということになるでしょう。
    7割の人が抗体をなんて夢のまた夢の話であって、「自粛活動は2022年まで」というのもまんざらではなくて、そうしないためにも国民一人にマスク1日1枚手配できる生産体制を国内で確立して外出時にはマスク着用を義務化すれば、最低限の経済活動は復活できるのでは無いかと思うんですけどね。
    自粛明けの経済対策の前に経済活動を維持できる方法にお金をかけることを考えた方がいいのではないかと思いますね。

    話は変わりますが火宅というと譬喩品ですね。(私の仏教知識は法華経が元なので)
    長者の如く火宅から救い出してくれる為政者が世界のどこにもいないのが今の世の中ということですね。

  • #2

    今井一光 (日曜日, 19 4月 2020 19:09)

    ありがとうございます。
    PCR検査についての件数はこれまでの「やります詐欺」とは別として、独りの陽性患者に対して行う複数回のものが重ねてカウントされているとか・・・数字は相当下駄を履いていたということ。
    それほどまで政府の本心は「PCR検査」は広げない、というのが基本だったことがわかります。
    ようやくようやく重い重い腰を上げたというのがここ数日ですね。

    「火宅」は仰る通りです。
    ただし当流においては開祖親鸞聖人の
    「煩悩具足の凡夫、火宅無常の世界は、よろづのこと、みなもってそらごとたはごと、まことあることなきに、ただ念仏のみぞまことにておはします」の語を直接指すものでもあります。
    要は「気づき」の要請であると考えています。
    家に(国に)火が付いていることに気づかず、「大丈夫だろう」の楽観を決めこみ、いわゆる危機管理のできていない私たちの事。
    その指摘を身に染みて感じるべきであるのに、知らんぷり。
    それが「私であった・・・」の悪人正機の論となります。
    ほんとうのことに気づかされて感謝することが念仏へと繋がります。