お灯明台の下は暗い 灯台下暗し 今堅田出島

真冬に逆戻り。

法事は2回。いつもの薄っぺらな三点セット、襦袢+白衣+簡衣輪袈裟で強風の中髪をボサボサにして動き回りました。

桜の開花宣言がありましたが、境内のヤマザクラの蕾はまだガッチリと堅いままです。

先日の温かさで5、6鉢のハイビスカスを外に出していましたが、「寒い」の予報を聞いてあわてて玄関内に収容していました。

面倒な季節です。

 

私が昨日取り入れた対策は法事のあと帰宅次第即風呂に飛び込むというもの。よって昨日は2回の法事で2回の風呂です。

これは新型コロナウィルスは「湿度50%以上で死滅」などいう正誤不明の情報を信じ、それを採用したというもの。

湯船に入って思いっきり深呼吸してやると、「奴らをやっつけた」という気にしてくれます。

少なくとも手洗いうがいの代わりにザブンと体全体をウォッシュするのですから悪いワケがないはずです。

 

もしそう(湿度50%・・・)であるなら加湿器を稼働させて洗濯物を室内で干すなどしての対応ができます。

日本には梅雨がありますので終息も期待できるというものです。

先日も雨というものへの考え方が変わった(悪いものを洗い流してくれる・・・)ことを記しましたが、もしそれが確かなら今時の降雨は有難いものです。

 

さて、「灯台下暗し」の諺は色々な場面に使用されますが、やはり「他人の事となるとはとやかく評価の対象にしてどうこうと観察することができるくせに肝心の自分の事になるとまったくわかっていず方向性を誤る」風の意味がしっくりと来ます。

人は自分というものを「棚の上に置く」という傾向が強いからです。

 

要は自己の「立ち位置、スタンス」がわからないということですから、何をするにしろピンボケ、変てこな結末になるワケで。

日銀のクロちゃんもバズーカならぬ久々の「金融緩和」のアナウンスをしたようですが、とんだ期待外れの空振りだったようです。「これまでの2倍株を買います(買い支えます)」が主たる「切り札」だったようですがこれはいつもの「小出し」の類。見透かされているのですね。

 

市場はやはり「消費税ゼロ」くらいでないとそのヤル気について納得しないかも・・・。キャッシュレスのポイント還元なんてケチくさくて「そんなの知らねぇ」という人たちにはまったくインパクトなし。

 

政治家というものは「自分の手柄」を意識してそのタイミングを思案しますが、ボロボロの底割れ状態になるまで「とっておき」の切り札は待つつもりなのでしょうかね。もう世界はぶっ壊れつつあるのに・・・。

日本は踏ん張ってる・・・? 普段はワールドワイド、世界が商売のステージである如くを吹聴しているのですが。

 

その「灯台」とは本来の意味は「灯明台」の意。

本堂内で灯明は必需品ですが真っ暗な中、電灯を消してそれを点ければ勿論その周辺は明るく照らし出されます。

しかしそのローソクの治まり具合を確認したくても暗くてほとんど手探りになりますね。

その灯明の真下は暗いのです。

 

その暗さそのものを照らし出してくれるのが阿弥陀如来の十二光。気づかない、気づきがない、のうのうと生きるということは痛切なることですね。

私は度々気づかされることありますが2、3歩行けばスグ忘れてしまういかにもマヌケ。

 

画像は今堅田の出島(でけじま)の灯台。

これもある春の桜の季節でした(場所はこちら)。