源義経と阿閉貞征(あつじ さだゆき)の名 山本山城

いよいよ東京オリンピック、中止か延期かの声があがり出しました。当然でしょうよ。

あの知事さんと元総理殿が「ありえない」と息巻いていたようですが、それを決めるのは「世界」の論理ですからね。

いくらその願望を強く仰ったとしてもムリは無理。

当国民の殆どの人たちも内心「無理だろう」というのが本音でしょうね。

何事も早く決める事が傷口を浅くする秘訣だと思いますが。

 

ボロボロ、叩き売り世界経済の様ですがその対応は相変わらず遅いですね。

各国の協調が必要ですが、日本の国内事情の打つ手としても一体どうインパクトあるものを持ち出すかといえば、よく言われるのが日銀の金利深堀りと政府の財政出動ですが、もはや金利をイジるのは無理。

手詰まり感溢れていてやるとしてもいつもの「小出し」では見透かされてしまいます。

御門徒の口から「枝ぶりのいい木はないか・・・」の悲観ともジョークともいえないような言葉を聞きました。「正しく・・・(恐れろ)」的政府の切迫感ナシというのが私どもの切迫感。

 

ドカーンという「絶対やるぞ!!」のアナウンス効果が大事です。例えば消費税を5%まで落とすいや、ここは一旦時限的にゼロ%にまで落とすなどして欲しいですね。この節、インパクトメッセージが・・・

ケチな政府は元の8%くらいの様子見的策がもしかして浮上するかもしれませんが(それすら否定しています)、その程度では「強烈」とは言えないでしょうね。ガツンと一発「らしくない」英断ができれば。

トランプは一応、そのメッセージを出しました。

 

 

戦国期に為政者が領国経営の最善策として楽市楽座を進めた件は御存じなかったのでしょうか。

 

楽市楽座は物流と人の動きを円滑にし、商人たちの税を免除したことによって結果、都市の繁栄と領国の富を築きあげました。

既成の特権を排して規制緩和をしていったわけですが、為政者は商人たちの稼いだ利益に関して税を徴収するという簡便かつ効率的な形を作り上げました。

平たく言ってしまえば庶民の購買意欲を削ぐ消費税にあたるものは徴収せずに自由な売買を行わせ、大商人の利益を今の法人税の如く徴収するようなことかと思います。

 

まぁ大企業の力をバックボーンにしている政治屋さんにその手の事ができるはずもなく、私どもは次の手筋を想像するだけですね。その手が出ないのが手も足も出ない・・お手上げということになります。

歌舞伎の「さぁ」「さぁ」「さぁ・・・」の繰り上げの如く。

もうオリンピック開催の是非で時間を割いている暇はないのでは・・・

 

さて、山本山城について江州佐々木南北諸士帳の「種路 山本判官」と城址登城口のその名について記しました。

そしてまた南北諸士帳伊香郡(いかぐん)に目をやれば

 

山本城主 佐々木随兵 山本九郎  山本源氏嫡流是也

  頼義三男新羅三郎義光孫武田義栄九男山本九郎義恒(経)

山本城主 住 阿閉氏

 

とありました(江州佐々木南北諸士帳)。

清和源氏義光流山本氏は代々九郎を名乗ったのでしょうが「山本義経」と源姓を名乗らせれば「源義経」。

どなたも知ってるあの「義経」と同時代の人で紛らわしいですが、山本の方は木曽義仲と同行して京都に攻め上がり、結局源義経連合軍に駆逐されてしまいます。

そういう意味からしてこの山本の方の源義経に愛着が湧いてくるというものです。

 

その後こちら山本に入ったのがやはり佐々木源氏の被官だった阿閉(あつじ)氏です。

阿閉貞征(あつじ さだゆき)という人は元は伊香郡の国衆で京極氏から浅井氏に勢力逆転の時に浅井家家臣団に編入され、当初織田勢との攻防の際は織田方を苦しめています。

 

浅井本城、小谷城を守る絶妙な位置の山本山城の阿閉守備方でしたが、織田の調略に乗ってスンナリ浅井を裏切ります。

 

「信長公記」元亀元年1572

「阿閉淡路守縦籠る居城山本山へ木下藤吉郎差遣はされ麓を放火候」云々 

 翌八月に「淡路守(貞征)は織田方」にと・・・

 

この裏切りによって浅井の命運が尽きるわけですが、阿閉一統は一乗谷朝倉への攻城の先手。

相手の調略にのるというのも(裏切り)ラクなことではありませんね。

その後当地の所領は安堵されたそうですが長浜を任された秀吉家臣団に組まれつつ秀吉との反りはあまり合わなかったようです。

 

本能寺の際は明智方に着いて長浜城を占拠することになりますが、その結果阿閉貞征と息子の貞大( さだひろ)もろとも磔にされ刑死、本能寺に晒されたといいます。

それまでの流れと遺恨もあって明智方加担の判断は裏目に出たということですね。

 

尚、余談ですが前出「山本義経はご先祖である」と言っていた女優さんに山本富士子がいました。

 

②は登城口から上り出して振り返ったところ。

③に伊吹山が見えます。

⑫は判読不能でしたので少々画像処理しました。

いずれにしろかなり以前の画像ですから今頃は更新されているかも知れません。

 

標高325mは小谷城から比べてもそれほど苦痛はありません。

小谷城よりコンパクトで案外守りやすかったかも知れません。