桜の頃の近江益田から安養寺 山本山の水中出現地蔵

増田家ご一統分家の葬儀式がありました。

法名に「安」の字がありましたが、この文字は先方ご家族の希望です。

ちょうど葬儀の終了間際にあの「3.11」の発生時間に合わせたサイレンが街に響き渡っていました(14時46分)。

 

この「安」こそが今の私たちの希望ですね。

震災や各中止・自粛の風潮は人々が「不安」だからこそのものですから、その思いは今一番にその安らかで平静な時代への回帰が求められています。

真宗門徒では「安」の文字と言えば「安楽」か「安養」(あんにょう)というお念仏に似合う語が思い出されますがそれらはやはり浄土のイメージです。

人々の思うその浄土とはきっと普段通りの振幅の際立たない生活のことなのでしょう。

未知なる不気味なモノに振り回されている現状から早く脱出したいものです。

 

さて、増田家の元祖といえば、当山開祖と近江より同行した一味であることをかねてから記しています。

近江門徒ということで以前ブログでは長浜の「益田」の増田山真宗寺について記しました。

そちらの益田集落のお隣が安養寺でしたから「増田」に「安養」は付き物・・・などと勝手にこじつけていた私が居たわけです。そのブログでは安養寺からさらに行った山本山城の名をさらっと記していましたが、それっきりずっとそのままになっていたことに気づきました。

 

あの時は桜の満開の頃、あの特異な山の形にポツンポツンとヤマザクラの満開の様子は心底安らかな気持ちにつせてくれます。

山本という集落に入る前からあの山本山の形はその存在感を顕わにしていますが、その城としての守りは余呉川を天然の堀としています。

その支流の中から現したのでしょうか登城の手前に「水中出現」の標の建つ地蔵の祠がありました。

近くに散らばる五輪塔や石塔残欠に目が行きますが、こういった場所にも世にありがちな「川の中から」の件あったのですね。

勿論、余呉川上流の水害を推測するものです(場所はこちら)。