この頃の人探しをすることは比較的簡単になりました。
特定のコネクションまで求めるのならSNSや個人発信サイトを見つけてメッセージを送ってもいいですね。
大抵はあっという間に応答があって繋がってしまうものです。
メールアドレスなど判明すればそれはもう即でしょう。
しかしメール受信に関して、先方のパソコン、サーバーで機械的にキャンセルされることもあったり、無事に到着しても「知らない人」「怪しい」と思われれば即削除の憂き目に合います。
資料を添付したりすればなおさら警戒されます。
これは私もいつものスタンスですので致し方ないことではありますが。
よって万全の手段ではありませんが、なにしろメールというのはお手軽です。
私はメールならばとお気楽気分で「はじめまして」と知りたいこと色々について質問等を送り付けますが、案外「回答ナシ」は多いものです。
そしてその回答ナシはお寺さんに多い傾向があるような・・・物理的な見落とし含めて「知らない人」の受信拒否は当然かも知れませんので、「無回答」というのもアリと了解しています。
先日は長谷寺の墓碑について記しましたが墓碑に記された水害の年号から鈴木一久氏による「近世における山城地域の水害」というレポートについて記しました。
木津川と長谷寺は決して近いとは言えませんが遠からず、何よりも洪水の発生と年号がピタリと合致していたことから間違いないだろうと思ったのでした。
ただし私一人の発想だけでは正確とはいえませんのでこれは鈴木一久先生にご意見を伺うのが一番とその連絡を試みました。
また先生の学問、堆積学のフィールドとは違いますが他の類例の存在も明らかになるかも知れません。
検索となると同姓同名の方はたくさんいて先生による何かの発信の形跡が見当たりませんでしたので、レポートの最後に記された近畿大学に直電してみました。
時間をかけて丁寧にお調べいただきました。
すると既に逝去されたことをお知らせいただき、ここでも人間界無常を感じさせられたというわけです。
そこで今一つ所属のわかった研究機関「日本堆積学会」に例の画像付きのメールで問い合わせてみました。
すると「画像が大きすぎます」の着信不可の拒絶メール。
これは添付ファイル付きメールへの警戒拒否であるのは当然のこと。知らない人から初めてのメールが添付フィル付きで届けば私ならば問答無用でゴミ箱です。
すると翌朝になって「開きました」というメールがあって、やはり「残念ながら先生は2016年に逝去されました」と。
メールは別の筑波にある事務局に再転送いただき、その返信が
「鈴木一久さんは堆積学会が堆積学研究会だったころから長く活躍され、本会の刊行物である堆積学研究にも、2016年に亡くなる直前まで多くの論文を発表されていました。鈴木さんへメールをとりつぐことができず大変残念です。」でした。
先生のまとめたこの水害の歴史レポートは一部地域についてではありますが、貴重な学術的教訓です。
先生のレポートにあった通り教材等に活かしていただきたく思いつつ私もその確定的アドバイスをいただくに至らなかったことにもやもやは残りました。
ところがまたその翌日になって熊本大学の堆積学の松田博貴先生からメールをいただきました。
先生は減災関係の仕事にもたずさわっているそうで、あの墓碑についての私の疑問を解消していだく解説をしていただきました。有難いことです。
この件、奈良県の自然災害史に関する資料の「初瀬流れ」として記述されている洪水災害の碑である可能性が高いそうです。
先生によると
「長谷寺付近を流れる川が、大和川(上流部は初瀬川)であり1811年6月15日夜から翌日にかけて大規模な洪水が発生し、126名の方が亡くなられたと記述されています。初瀬や出雲などの地名が資料にでてきますが、現在の地形図にもその地名があります。
~資料では局地的な大雨としていますが、故鈴木一久会員の論文(近畿大学教育論叢)と合わせると、大和川(初瀬川)水系(奈良県桜井市)から天理市、奈良市東部を経て、木津川水系(京都府木津川市・精華町)まで複数の箇所で洪水災害が起こったことになります。したがって、南北約30km程度の比較的広域にわたる洪水災害(土砂災害も)であったと思われます。
旧暦の6/15は新暦の8/3にあたりますので、夏場の豪雨であったのではないかと推測します。」
でした。
私はあの墓碑の意味がスッキリ分かったということもありますが、学者の研究機関のネットワークが広域にわたっていてそちらの方にも驚き、また丁寧な回答をいただいたことにも感謝いたします。
こちらに松田先生から紹介いただいた「江戸時代の奈良の災害」から「初瀬流れ」の記述を概略転載させていただきます。
「文化8(1811)年(新暦8月3日)に、現在の桜井市で初瀬川決壊により洪水が発生し「初瀬流れ」と称され現在も語り継がれている大災禍です。
その様子は「大和風水害報文」の「文化八辛未年大和洪水初瀬流 紀元二四七一年 西暦一八一一年」に記述されていて、詳細はそれにより知ることができます。」
「六月十五日夜五ツ時より小雨降り出し同夜八ツ時頃より一時許大雨頻に降りし為に初瀬より奈良迄の山手は殊の外大水となり初瀬にて家三十軒流れ溺死せし者六十七人あり其他に泊込の旅客十五六人溺死せり而して追分、金屋、三輪の邊は床上へ浸水し布留谷にても人家五六軒流れ丹波市村は全部床上へ浸水せり又岩屋谷村にても家二軒流れ櫟ノ本村にては土橋悉く流る又菩提山川の出水にて高樋村に潰家二軒と中之庄村に流家二軒あり。蔵ノ庄川破堤し人家三軒流れ白土村、發志村、中條村、番條村等一躰に水押となる又岩井川は北側三ケ所切れ大安寺村水押となり往来二日止る」
「雨は夜五ツ時(午後8時ごろ)より降り出し、夜八ツ時(翌午前2時ごろ)には多量の雨が降ったようで時間降水量は100ミリに達していたとも考えられる」とのこと。
奈良以外には記録が残っていないのでこの地方での集中豪雨があったことが推測されます。
別の史料にも被害の中心となった初瀬周辺では集落全体が荒川のようになり、死者は126名に及んだとあるそうです。
そして、宇陀郡石田村(現宇陀市榛原石田)の「笹岡家文書」には「大雨とは言っても格別に降ったというわけではなく、特別ではなかったのに出水ががあったのは不思議」とあります。
そちらにはまた、(宇陀市)石割峠から春日山裏手まで小さな山崩れが数百か所で発生し、そのために出水したのでは・・・と。
また、「出雲の流れ地蔵」という名の地蔵があるとのことですが、そちらは「初瀬流れ」によって川上から現桜井市の出雲地区に流されてきたという伝えが残っているそうです。
「初瀬流れ」と称されているため初瀬近辺に大きな被害が出た印象がありますが、堤防の決壊などで白土村、發志院村、中條村、番條村(大和郡山市)や大安寺村(奈良市)に被害が出ています。
「大和風水害報文」では続けて
「奈良山よりも多く出水し猿沢池の鯉多数流出せり、奈良町も水押の為に番所及び牢屋へ浸水し囚人等は山へ避難せしむ奈良三條の西方にて水の深さ八尺許あり郡山大橋落合にて北方へ切れ京街道は五尺六尺の深さあり今回の出水は一夜の雨とて宮堂、吐田、窪田の如き水害場所には損害なく反って山の峯にて流家あり死人ありしは実に珍事なり」です。
こちら「江戸時代の奈良の歴史」では佐保川と初瀬川が合流する地点にある宮堂(大和郡山)、吐田(磯部郡川西村)、窪田(生駒郡安堵町)といった本来なら被害を受けていただろう平野部が無事で山間部の被害が大きかったことが不思議であるとしているのは短時間に多量の雨が降ったため河川に注ぎきれずに上流で洪水となったためと推されるそう(奈良気象災害史―青木滋一氏)。
一番上の画像は長谷寺下に建てられた与喜山(よきさん)暖帯林の案内板。与喜山は長谷寺の舞台から南面して斜め左の山で長谷寺の寺領です。
奈良にはこういった立ち入りを制限された大規模寺領・御料などの山系が多くありますが(春日山原生林等)、人の管理が為されていない絶妙の自然を継承しているのではありますが、こと自然災害には脆弱性を露見させるのでしょうね。
④⑤初瀬川の名が・・・この川は万葉集でも九首ほど詠まれているそうです(記載名は「泊瀬川」→奈良県民だより)。
⑧は宇陀市榛原の標識。
奈良の「榛原」・・・読みも当地の榛原と同じです。
地元初瀬に関わる水害死者の墓碑が長谷寺にあることはまったく不思議なことではありませんでした。
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