数日前までは顔が見えなかったソーリ殿、遅すぎるというかやっとこさ出てきましたね。
後手後手対策の遅さとミスを重ねるまさかの無能の態を晒しつづけ「支持率急落」に重い腰を上げたのでしょう。
今更の感ありますが、中途半端は通用しないような気がしてなりません。
もう目先の体裁とプライド・・・オリンピック開催と経済のことから離れて国民の健康と命を守ることに専念してほしいものです。基本は無責任。
世界に目をやれば・・・もはやパンデミックか・・・
さて、昨日は風もなくまずまずのお散歩日和。
できるだけ人の居ない場所、通りを選んでしばし海岸で佇みました。凪の海は心地いいものです。
私どもが住まう相良の「波津」という地名について「怖い」などという人が居て苦笑いさせられたという件、記しましたがこれはただ字面が「津波」の逆さまからのイメージでしょう。
まったく意味は違いますね。この「津」はここでは「湊」の意味。樋尻川河口の船着き場があって小舟がそこからお城の堀に向かうルートがあったからですね。
横須賀城に見られたような「姥ケ懐」系の外部と遮断することを目的とした港湾施設でなく、河口海岸の波打ち際に「湊」と称した船着き場があったのでしょう。
そして私がいづれお寺のバス遠足で向かいたいと思っている木津川の笠置山(字は相良とは違いますが旧相楽郡になります-笠置町)ですがこの木津川の「津」も湊の意味です。
すなわち木材の集積運搬の「湊」ということですね。
こちらが木材の京都、大坂への流通拠点となっていたのでした。
笠置山については何度かブログでも記していますが(またはこちら こちら こちら こちら)、この笠置の山を「笠置砦」と記していました。
ところがいつもの日本城郭大系に目をやればしっかりと「笠置城」との名称がありました。
砦であろうが城であろうが似たり寄ったりですがどうしても「砦」ですと小規模を想像してしまいます。
考えてみれば大層な兵を投入した大規模な戦闘がこの山であったわけでここでブログでもしっかりと笠置城と名称を記したいと思います。
南朝方として遠路三河から出張った足助重範にも敬意を表さねばなりませんが、そもそも太平記には笠置城として出てきますね。
その日本城郭大系の記述冒頭より。
「笠置山は木津川の横谷の北岸にそびえている。その東麓に布目川、西麓に白砂川が流れていて三方を三河川によって囲まれ南側は尾根道を経て柳生方面から大和国や河内国に通じている。また山麓から頂上まで絶壁を呈している所や巨大な岩石が多く『太平記』巻第三にも『笠置ノ城ト申スハ山高シテ一片ノ白雲峰を埋ミ、谷深シテ万仞ノ青岩路ヲ遮ル』と記されている。」
足助重範の登場する「山城名勝志」。
「城址は後醍醐帝御城跡也。弥勒石山上西北隅有本丸二丸跡其狭仁王門跡従麗登七町許少下有一ノ城門跡。足助次郎遠矢射タリシ所在坂半陶山小見山ハ東北ノ谷ヨリ夜討セシト云。
城跡北に有貝吹岩遠見岩此処絶景也。望東北有市大河原飛鳥路村目ノ下ニアリ。」
こういった要害の頂上付近に事前に集積していた大石に丸太を直前まで敵を引き寄せたところにぶちまけるという作戦が図星となって当初は少数で善戦しますね。
籠城組は殆どが地元南山城の郷侍の中、足助重範が三河から出向いたその意気とは・・・
とにかく谷深く河川の入り乱れたこの地が古くから水害土砂災害に見舞われていたことは推測できますね。
③は木津川超しに見た笠置山。④⑤は昨日の地元相良の海岸。
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