当流僧籍というかその道へのショートカットは、とにもかくにも教師資格を取得しなくては始まりません。
そのための比較的ハードルが低く門戸が大きく開いかれているのが「大谷専修学院」です。
寺院関係者子息縁者に限定していません。
休日の自由はありますが、全寮制集団(グループ)行動になっていますのでそれなりの覚悟は必要ですが。
尚私自身直接こちらにお世話になったワケではありませんので詳細については各お問い合わせください。
その男子寮のある場所、敷地内も山科本願寺南殿跡ということになります(女子寮は他所になります)。
山科本願寺や「南殿」については拙ブログにてかつて記していますが南殿「土塁」は現状良好に残っています。
拙ブログでは南殿幼稚園側から、あるいは東側の広場からの画像でしたが、昨日専修学院について記しましたのでそちらからの残存土塁の概要を紹介することにしました。
南殿といえば蓮如さんの隠居場のことでそちら山科南殿の跡は光照寺に「南殿幼稚園」(またはこちら、こちら)と普段自由に出入りができない場所。
そしてまた、こちらの大谷専修学院の男子寮も部外者かには隔絶された地(場所はこちら)になります。
昨日も大河ドラマで織田信秀の尾張古渡城が番組最後に紹介されていましたが、そちらの現在の姿は当流名古屋東別院です。
険しい山中の城ならともかく「平城」の場合は宅地化して城郭遺構は殆ど跡かたもなくなってしまうか石碑の一つが建つ程度ならまだマシとなるというのが常です。
しかしそのように寺院施設が入ったりそのままに存在できれば遺構も比較的形状良く残り古城好きにはたまらない存在を提供してくれます。
只今、「古城」という語を持ち出しましたがこちら「山科本願寺」は「寺」なのではありますが、しっかり城好きバイブルの「日本城郭大系」への記載があります①。本願寺の図。
後段に「中世の平城としては京都府最大の規模」とありますね。城というか御堂、伽藍を中心に発展した都市の概念なのですが。
城郭大系に紹介されている「二水記」という日記、これは永正元年1504から始めたのでその元号の「永」を「二」と「水」に分けて命名したものですが天文元年(1532)八月二十四日条にその本願寺寺内の繁栄の件が記されています。
「そもそも本願寺は四五代に及び富貴栄華を誇り、寺中広大無辺、荘厳ただ仏国の如しと云々。在家また洛中に異ならざる也。居住の者各富貴、よって家々の嗜 随分の美麗と云々」
そういう記述が存在していることからも当時本願寺が各方面からやっかまれて恨まれ、結果山科本願寺の「城」は落とされ、よてこちらから石山本願寺に移っていったのでした。
こちらの寮の場合はどなたか一言声を掛けられれば少々の散策はOKかと思われますが・・・。無断はマズイでしょうね。
入学すればこういった城郭遺構の杜の中で一年間暮らすことが出来ます。山科といわず一年京都に居れば古都通になることは必至。
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