私のイメージ「歹」と「ヒ」 当尾千日墓地の鳥居

横浜港に着岸出来ないでいるクルーズ船には3700人の人たちが缶詰めになっているそう。

このうえで一人でも感染者が出たとしたらこの「拘束」は続くことになりますからここ数日に下される結論は要注目ですね。

 

WHOがこれまでの「潜伏期間14日」から「10日」に短縮していましたがWHOの発表はそもそも中国政府に忖度(中国の国連分担金は3億3470万ドルで分担率12% 第2位で怒らせないよう)していた風が感じられていましたのであまりアテにならないような気もします。

 

それにしても船という半ば洋上隔離同等の当局「都合よさ」には「ツイてない」のほか言いようがないですね。

バス・電車、町の中で不特定多数の中で発症者が出たとしても施策として手の打ちようは無いでしょうが「船」の如くパッケージでしたらカンタンです。

そもそも港湾・船舶といえば「検疫所」の発祥というか力を入れるに得意なところ。

まぁ事案放置して上陸を許可し、感染の拡大を助長したと指摘されては責任問題につながりますからね。

 

さて、鳥居というと今ではほとんど神社の入り口にある建築様式の感。

その語源としてはまさに「鳥が居た」とか「通り入る」のあて字等各あるようですが、私が昔から父親に刷り込まれていた思いとしては父が若い頃の軍事教練の際、上官か教師に「お前はそこ(鳥居)を通るな !!」と叱られたことからのナンセンス、「アホくささ」、その存在の意味への不信を語っていました。

 

縁者の葬儀が直近にあって「穢れがあるから」(汚染されているから)がその理由であるとのことでしたが仏教には死を穢れとする発想はまったくありませんので、今その話をしたとしても息子は笑い飛ばすでしょうね。

しかし明治に遠くなかった(昭和初期)時代その頃といえばそういった発想がまかり通っていました。国家神道ですね。

 

鳥居の原点はといえば神社建築物構築以前の門であったり中国伝来の「華表」であったりと不詳の部分が多いのですが、そもそも「鳥居=神社」の発想は明治以降の神仏分離令からです。

 

そのバカバカしい廃仏毀釈の風潮によってそのカタチ(鳥居といえば神社)が「確立」していったのかと思いますが、古い墓地を歩いている私などは仏教的墓域の門口に鳥居が立つなどの様子はさして珍しいことでもなく思っています。

その発想(鳥居=神社)は後世作られたもので正確ではないということですね。

何よりその鳥居の奥に「神」を確定できるものは一切皆無ですから。

 

ここで私の鳥居のイメージを勝手に記させて頂きます。

と言っても見た目だけですから大した意味はありませんが。

それがバッと見「歹」と「ヒ」の合体文字の如く。

「歹」を漢字のへんとして「がつへん」と呼んだり「一に夕」ですから「いちたへん」等の言葉がありますね。

それが鳥居の向かって左側。

そして右の「つくり」の部分が「ヒ」に見えるのです。

 

二つ合わせて「死」じゃあないか・・・とお怒りになられ方もおられるかと思いますが・・・。

「死」という文字を「けがらわしい」と考えないのは私ども宗旨ではありますが、ここでもう少し踏み込んで文字の語源を紐解けば「歹」は本来「残」の文字の通り、「残ったもの」の意です。

そして「ヒ」こそがポイント。

この象形は人が膝をついて手を合わせている様子だといいます。

その「死」の文字の意味を考えると「現在の様態」について記した文字ではないということです。

話は逸れますがその無常の行き着いた様態を一字で記せば「亡」であるといいます。

権力の「亡者」、カネの「亡者」・・・とよく聞きますが、それでいてその人たちは「生きざま」としているのですから「厚顔無恥」とも言う本当の意味での「けがれ」でしょうね。

 

ここでいう墓地の入り口にある鳥居は参拝の対象(亡き人の残したもの「遺骨」)に向かって膝をついて自らの存在を反省(それが本来の「謙虚」「真摯」の姿⋯政治家の口から出るものとは異にします)し、感謝する「場」と俗世との結界を意味するものであったというのが歴史的建造物としての鳥居であると考えます。

よってそういう考えからすればかつて子供の頃に父親に怒鳴った某とは「何もわかっちゃいなかった」とニヤリとするころでした。

 

大阪四天王寺西門の石鳥居は永仁二年(1294)とのことですが墓地の入り口を飾る鳥居というものは比較的新しい(江戸以降)ものが多いようです。

ただし墓地の鳥居というものは明治になって取り壊されるケースが増えましたので今残っているということは、その件(分離令)その発想が単に「ゆき届かなかった」ということです。

それほどその令がイイ加減な行き当たりばったりの施策であったこともわかるというものです。

 

画像は当尾千日墓地の重文十三重塔①の前に建つ石鳥居。

私が訪れた時たまたま境内で木津川の教育委員会?の方とお話ししましたが、「おそらく鎌倉時代か・・・」と仰っていました。

何か文字らしきものも見えますが判読できませんでした③。

 

鳥居までの墓地参道の階段も古そうな工作物が並べられていることがわかります④。

それにしても石鳥居といい十三重塔といい、この辺りは地盤がいいところなのでしょうね。長い年月を立ち続けているということですから。

千日墓地看板の後ろにある建屋の柱は石柱でした。

 

私が隠居して住処を求めるとしたら当尾でしょうね。また変わりました。

ムリな話でしょうが。

 

 

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コメント: 2
  • #1

    がつお (水曜日, 05 2月 2020 10:57)

    過日の藤田先生による「おみて」「お美代」の件、なるほどと拝見しております。

    さて、本日の画像3にあります鳥居の文字ですが、私なりに読んでみたところ
    明治二十五年九月建(立か?)
    と見ました。
    ただ、鳥居の笠木と島木に当たる部分とそれ以外の石の質が違っているようにもみえるので、下部を明治25年に造り直して復活させたということになるのでしょうか。

  • #2

    今井一光 (水曜日, 05 2月 2020 11:37)

    ありがとうございます。
    目がちかちかするくらいで読もうとする努力もせずにいましたが
    仰るように明治二十五に見えますね。おそれいりました。
    とすると修復が為されて柱の部分が追補されていることでしょうね。
    やはりアレだけバランスの悪そうな構造物が鎌倉時代から立ち続けているというのは
    早合点でしたか・・・
    木津川の御担当は十三重塔の計測に来られていたようですが、そこまで伝えてくれませんでした。