「年金は国家による詐欺」と言われるようになってから久しいものがあります。
その「意義が違う」と主催者側に一蹴されそうですが、苦しい思いをして若い頃からそれを支払い続けた者としてのスタンスはただ一つ。
「払ったものは取り返す」そして「できればそれ以上の色をつける」というのが切なるものですね。
人生の時間切れについては当たり前のこととわかっているつもりですしそれについて「だからこそ・・・」の投げかけと「さあどうする」のこれからのきっかけ作りに仏法を聞いていただかなくてはならないと思う私ではありますが最近広く「人生100年時代」などと囃され刷り込まれ図々しく「そんじゃあ私も・・・」という具合に・・・まさかそううまくはいかないでしょうね。
昨日も記しましたようにまさかの坂はどこにもありますし、「自分だけはうまいことヤル」などというのはムシが良すぎる話でその「100」は仏教で説かれる「無常」について少々舐めている感あります。
まぁ、色々な延命危惧に繋げられてのその数字かも知れませんがね。
ということで最近お国の方で推奨されるようになった「75歳以上~」などの「年金受給を遅らせてガッチリ」の甘言はまともに信じてはダメですね。まさにそれこそ博打なのかも知れません。
だいたい「意義が違う」と主張される当局の方でその件を餌にするが如く宣伝していることはまずすべてが疑わしく感じます。
要は周囲俯瞰して年金受給前や「元を取れないまま」亡くなってしまう方が如何に多いことか・・・そして「年金が破綻するかも・・・」の声も昨今多く聞こえてきます。
それなら早いうちから受給し、健康長寿を心がけた方がまだマシという結論です。
詐欺と言えば先日「こんなハガキが来ましたけど」とある方から(下の画像)。
警察には届け済みだそうですが、いわゆる今流行りものの詐欺の手口でしょう。心当たりがまったくないという年配者です。
ありもしない負債について提示しそれについての問い合わせをしてきたお人よしに「過去の〇〇についての支払いが完済されていない」風のデタラメを信じ込ませてカモにするという手口ですね。
その手の郵便物やメールの数々は「人を騙して金を奪う」ことを目的としていますが今や世の中、その類の話で溢れかえっていて嫌な時代となり果てています。
ネットでその会社の名を調べてみましたが「詐欺の疑い」でヒットしていました。
何故に警察はそのような会社にやりたい放題をさせているのかわかりません。
電話番号から辿れば犯罪行為は監視できるはずですからね。
悪事を働いて得た金は無造作に使われるに決まっていますから(こつこつ「貯金」などしない)オレオレ詐欺はじめその類は結果的に国の期待する景気浮揚のために一役買っているということとなりましょう。
消費税を上げて景気後退を軽く見せたいために詐欺蔓延社会を作り出せば数字のアップに繋がるのか・・・などと穿って考えてしまいます。
年寄りのタンス預金を市場に吐き出させるという期待があったりして・・・
いろいろと信用のおけない時代です。
まぁ詐欺師と永田町に居る茶番師たちの行きつく先は決まっているものですが・・・。
でも私は彼らにもお念仏だけはさせていただきます。
気の毒な人たちでもありますからね。
さて、上記画像は先日ブログで記しました当尾の新川沿いの野山の図です。
珍しい細長い1本の石材を掛けただけの石橋がありました。
さも「どうぞ・・・」と言っているように感じて心が動きました。
まさか私がそれを渡った時に限ってその石橋が落ちることは考えられませんでしたが、土手との接地面も浅くまったく信用ならない作り。
「石橋をたたく」よりも「天使の前髪」・・・というか「拙速こそ命」の私ですが、この橋に足を掛ける気にはなりませんでした。
ちなみにこういった石材というものは概して古墳から出て来た石棺部材の転用が多いものですが。
③の辺りに先日の「川の中の二体仏」がありました。
周辺散在の墓石たちが集められている場所がありますがそちらにも「地蔵+阿弥陀」の二体仏の石塔が見受けられました。
阿弥陀仏は浄土信仰を表すところ当然それは「おたすけ」を意味します。
しかしながら浄土往生が「一定(いちじょう)治定(じじょう)」されない(と思う)衆生にとっては、「間違いなく地獄に堕ちる」という信仰が強まって、それであるなら地蔵に堕ちたあと、そちらでの多くの責め苦から少しでも救済されたいと求めるようになったのが地蔵信仰の元となる考え方ですね。
この地は平安期に貴族世界から繁盛しだした阿弥陀信仰が民間に降りてなおかつ土俗的地蔵信仰と結合した頃の人々の「素朴」を感じます。
蛇足ですが、それら面々(詐欺師・茶番師)はまずその地蔵菩薩・・・地獄の閻魔さんの浄玻璃鏡でこれまでのあらゆる嘘が見破られてそれなりの責め苦を大いに受けるというのがそのならいでしょう。
挙句人々に「ざまぁみやがれ」と後ろ指を指されて「針の筵」となるのがオチですね。
当流では地獄も極楽も決して死して行く場所ではないということもさらに付け加えておきましょう。
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