大河ドラマは野盗に人買い(人身売買)そして寺院による関銭の徴収など、当時の社会情勢を取り入れて描こうという方向性のようなものを感じました。
これまでの戦国時代の大河ドラマではその手の庶民の困窮を表現する場面はそうありませんでしたのでそれはそれでまた楽しく見られます。
特にまた僧形の屈強者が「さっきも払ったのにまたか・・・」と文句をつけた商人らしき旅人に殴る蹴るの暴行を加えるシーンがありましたが、まぁ場所的に考えれば比叡山の僧兵をイメージするところです。
商人の「さっきも・・・」の台詞から「関」がいたる所に設けられていたことを示唆していましたね。
関は国・郡・町村の境界、物流の拠点、船着き場に橋など通行料含めて私設・公設含めて手っ取り早い現金収入ですがやはり「銭」というものが広く流布していませんので米を主体に「物」も徴収したことでしょう。
生産性も良くない時代ですのでそれら物の流れを阻害する関の存在はインフレを招き、庶民の生活は劣悪だったでしょう。
大名による国内、関を廃して楽市楽座を推奨したのは商人に物流と売買に特権を与え経済活動を円滑に行わせて利潤を多くあげさせその上前を独占して徴収するシステムです。
商人は当国の大名権威者にのみ税を支払い、他の各徴収活動を拒絶し保護されるというメリットがあったと思われます。
それにしても今回の大河の衣装は特筆モノ。
民衆レベルであっても、きらびやかで原色の着物はさすがに無理がありますが、その件はキレイだから「まぁいいか・・・」です。
私が「それで良かった」の自己満足のあとずっと後を引きづっている件・・・。
それが近江の清水山城をブラついた帰り途(場所はこちら)。
おそらく大手道の直線だと思いますが、「竪堀の掻き揚げ土塁の底部を歩行するタイプか?」などと考えながら歩いている時・・・「土塁上の植物繁茂のせいで崩壊が免れ現在は堀底ではなく土塁上を歩いているいるのかも・・・」などと色々思案しながらですが、平らかに見える石がべったりと土に張り付いて埋まり、ちょうど良さげのステップになっている様子が目に入りました。
将棋の駒のような形の花崗岩質のそれに立ち止まって「まさかね」と言いながら、カメラを首に掛けなおしてから両手での石を起こしました。するとやはりそれは石仏でした。
この辺りは信長に蹂躙された地であり、城の一部には各所から出た石仏が集められている場所がありますが、そういった石仏が上部から流れ落ちて来たのでしょうか。
近江の城址は結構に寺と共存していた時期(それは山岳寺院を城塞として拡幅する趣向)があって城も寺も同時期に廃されていると墓域も荒れて石塔類は離散するでしょうから。
するとそのスグ近くにもう一つ同じような、黒くなった石仏が表を上にして転がっていることに気づきました。
黒色は炎上痕ではないと思いますが・・・
私は勝手に「夫婦ならいっしょがイイでしょ」などと決めつけて、一人おしゃべりしつつ並べ満足し、下山した次第です。
しかし置いた場所は道のド真ん中。
人が踏んづけたり蹴飛ばしたり、また大水に流されることもあるかも知れません。
どでかい台風の直撃多数によってどちらの山も相当に荒れていますが自然と化した彼らにもはや人の手は無用と。
しかしながらもう少しばかり道の脇にしっかりと据えてあげればよかったのか・・・と頭から離れません。
「拙寺境内にお迎えしても・・・」などは暴挙、二人の故郷はこちらですし(重すぎます)、誘拐、人買いと同様のこと。
次回もし行く機会があれば、チェックしたいところでもあります。
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