先日は母の遺影のバックの色を「青」にした旨記しましたがそれは桔梗の青の採用の件でした。
青系といっても幅広く一言ではそれをイメージするのは難しいです。別に私の好みである藍色(勝色)も「あお」ですしまたコバルトブルーの「みどり」系も大きい意味で「あお」とも表現しますね。
時に表現として「青臭い」とか「尻が青い」など「若すぎる」「未熟」の表現に使用されたりしますが、それは今になって考えればその半分は年寄り(私含めた)の嫉妬でしょうね。
生き生きしてポジティブで全てに肯定的、生命力溢れる若者たちに「もはや敵うことはできない」という卑屈がそう投げるかも知れません。
好き嫌いで色をどうこうと選んでいる自分があるのですが、それは単に好みの問題ですが、しばしばそれを人の生き方、性質について形容することがあります。
「バラバラである」ということですね。
宗旨的には「違っていてそれでいい」「それぞれ場で輝け」「他者との比較はするな」・・・なのです。
阿弥陀経にある「青色青光 黄色黄光 赤色赤光 白色白光~」の通りそれぞれの「発色」で自己主張している姿について讃嘆するが如くその色の違いについて強く記されていました。
しかし私は好みとしてはやはり「青」を主調します。それもひとそれぞれですね。
わたしの「青」の趣向とは関係ありませんが、昨日記した大谷専修学院の同窓生学習の会の名を「青草びとの会」と呼んでいるそうです。
かつての学院長の信國淳(あつし)という方が詠んだ歌から命名されたようです。
先生については「東本願寺の時間」にありますのでそちらをご覧ください。
歌の記された碑(青草碑)は京都岡崎別院に(またはこちら こちら こちら)ありました。
それはこの別院が学院のスタートとなった場所だからですね。
「われら 一向に念佛申して
佛天のもと 青草びととなりて 祖聖に続かん」
この歌の「青草びと」はどこからきているかといえば親鸞聖人の「御隣末の御書」ですね。
聖人の遺言として位置づけられている短文ですが、私は御葬儀の際に必ずこの一文を「表白」の最後に入れています。これはかつてブログでも記している通り。
「我が歳きわまりて 安養(あんにょう)浄土に
還帰(げんき)すというとも
和歌の浦曲(うらわの片男浪(かたおなみ)の
寄せかけ寄せかけ帰らんに同じ
一人居て喜ばは二人と思うべし
二人居て喜ばは三人と思うべし
その一人は親鸞なり
我なくも法(のり)は尽きまじ和歌の浦
あおくさ人のあらんかぎりは」
「青」はわたしたちそのものなでした。
偉そうな事を記していても気持ちは私が親鸞さんや母親の歳まで生かされたとして(90歳~93歳)・・・「年金75歳から」としても十分イケる・・・などの皮算用。
イケ好かない野郎・・・と思わせられるばかり。
①②③は京都岡崎別院。
コメントをお書きください