朝からぼっーとしてミスばかり目立つ1日でした。
失せ物、探し物の類でしたらまず時間の問題で解決することは目に見えていますのでどおって事はないのですが、本日の法事は掲示した個人の年齢を誤り、そのお孫さんから「アレは違う」の指摘。開式前にザワついている様子に気が付いた奥方が尋ねてみてその誤記が判明したのでした。
修正に数分を頂いて一件落着したものの、やれやれのため息が出ていました。
ミスの原因は一言で注意力散漫。しかしそのような屁理屈は通用しませんね。
昨朝「後夜」の頃に病院から「スグ来たれ」の連絡があってから母親の往生に立ち会い、それが長い一日の始まりでした。
今の頃といえば「夜は長い」を感じますが、瞬く間にその夜は明けて時の流れはあたかも強制的。
そこで法要がありました。準備とケアに欠落がありましたね。
母が数年ぶりに帰宅してからもやるべきことが山積でしたが、その日は土曜日ということもあって法要後も別件来訪者多数。
なぜかおしゃべりが弾むお客さんばかりで夕刻前には喉がかすれていました。
風邪をひく条件が揃っていますので気を付けねば。
「後夜」とは当ブログでも時々記す昔の時間の単位。
「六時」といって24時間を六つにわけていうその時間(時鐘六時礼讃)ですが何せ4時間も幅がありますから、その時代の人々の大らかさが推察できるというものです。
それでは往生礼讃 「後夜無常偈」。
諸衆等聴説 後夜無常偈
時光遷流転 忽至五更初
無常念念至 恒与死王居
勧諸行道者 勤修至無余
最初の二句は日中無常偈などと同様。
この偈のポイントは
①「あっという間に時は過ぎゆく」というところが「時光遷流転」。「五更」なる中国系の1日の時間割が出てきます。
②そして最後の「勤修至無余」が締め。
「余すことなく」ですから「与えられた人生<時間>を目いっぱいに・・・と、まさに訴えているところか。
歳もおし、あたふたの躰の私如きは蓮如さんから見たらきっと「あわれというも なかなかおろかなり」(白骨の御文)でしょうね。
1日・1年を人の一生にたとえて光陰の如くの時の流れに己の死を感じることの有意をいよいよ感じる頃あいとなったようです。
「念念」の「念」の重複に目が行きます。字を紐解けば「今の心」で念仏の「念」。
母が嫌がっていた本山帰敬式でいただいた法名はナシにしてその字を入れました。
画像は崇禅寺の庭。
大河が始まると果たしてこのベストコンディションは維持できるでしょうか。人々で溢れかえる様子がうかがわれます。
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