今年は特に「水」にまつわるネガティブなニュースに溢れていました。
そもそも「水」というものは人の生活に欠かすことのできないものですね。
生活水の他に水耕・水運などその利便は絶大なものがありますので、時々やって来ては暴れ狂い龍の如く破滅をもたらす「おそれ」に関してはきっとおおらかな気持ちで対応したのでしょうね。
要は「洪水は必ずくる」ものとしての「いつでも来い」のスタンスがあったのかと。
収穫や物品が「時々ダメになること」を考えるよりもその果実と「便利」を期待する方がベストだったのです。
現代の人たちはその対応策として作られた、さも立派そうな構造物(堤防)に守られていることに錯覚し何かが起こった際には「まさか・・・」の語を吐き散らかしていますが、水害はじめ天変地異など時として酷い目にあわなくてはならないことは「当たり前」の隣り合わせと承知していたはずです。
河川傍らの洪水水難は日常のことであって、危険を感じたら瞬時に(村落単位かも)高台に移動するようなシステムがあったのでしょうね。
それは夜中、雨中ズブ濡れになろうこともありますが「掟」のようなものがあって強制的に避難させられたのでしょう。
その「龍」が去れば「恵み」の流れしかありませんからね。
まあ、川の近くの低地に枕を高くして寝るという習慣自体なかったかも。
そして城砦などの防御性を考えた場合も水の存在は尚絶大です。
その「龍」でさえも味方にするのですからね。
「龍」への変身が無くとも通常時、城砦周辺を堀や運河で囲み水耕地(フケ田)を作って畔程度の狭量進入路のみの開口部を付けておけば大群が来ても対応は可能です。
昨日はそういった「フケ田の微高地」の平城(または平山城)の防御性ベストコンディションについて記しましたが、あの城の対岸の上田城はまさに歴史上抜群の防御性を発揮した城でしょうね。
千曲川堤防決壊箇所の長沼城よりさらに規模が大きいですが、千曲川氾濫域から20m弱の台地上にあります。
高台にある分、生活水利の供給には頭を使ったといいますが、何しろ2度にわたって徳川軍の包囲を蹴散らしていました。
巨大山城の威容の素晴らしさ(観音寺、一乗谷、小谷、七尾・・・)はありますが、真に強い城は「水」をフルに生かした城であると断言できます。
④⑤⑥本丸西櫓から見た千曲川方向。
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