昨日は武蔵野の日帰り行脚について記しましたが、武蔵野の風景と言えば秋から冬というのが定番の様。
「武蔵野の美(詩趣-ししゅ)、今も昔に劣らず」という国木田独歩の「武蔵野」にはその季節の件、冒頭から記されていました。
もっとも春夏秋冬朝昼晩、その地の絶賛の書でもありますが。
その武蔵野の区域は・・・というとその書によれば意外にも「かなり広い」のですが私のそのイメージとしては多摩川の左岸(現川崎市の北側もそうよばれることがありますが)、小田急線辺りより北、そして甲州街道を経てJR中央線そして青梅街道に囲まれた辺りというのがそれです。そしてまた「八王子は含まない」とありましたね。
もっとも開発によってその武蔵野の雰囲気を伝える場所~特に渋谷など~は消え失せているのですが。
よって私どもが先にお参りに行った府中の多磨墓地はまさにその「武蔵野」の中に頻出する「林」を想像できる場所でもありました。まぁその書は明治期に記されたもので当時はその手の墓域などはありません。
宅地がビッシリの中、墓地にされた分、開発の手からは逃れられたというわけで・・・
古い墓ではなくとものんびりと時間を取って散策する余裕が欲しかったのですが、何しろ昨日記しましたように目標の墓の場所がわからず墓場を右往左往させられて時間を喰ってしまいました。
曇天の様は雨の予測もあって早々に墓場を離れて甲州街道からほど近い深大寺城に向かいました。
こちら武蔵野の地形の特徴といえば遠州でいう大井川など大河が作った舌状台地とその谷部の関係とよく似ています。
有史以来稲作の効率を求めて人々は台地から低湿地帯に降りてきた歴史がありますが、いかんせん低湿地には過度に水が集中して、こと「住」に関しては適しているとは言えませんね。
ということで稲作は低地で、住居のあるムラは台地に展開するというのがそのパターンとなるわけです。
低地帯の形状はそもそもが台地上を流れる河川がその大地を削って作るわけで往々に谷と言えば今は見えなくとも「川の流れ」の存在が推測できるのです。
その台地と谷の境界は今の言葉で「崖」という語で通りますが、この武蔵野では特にその崖状の「岸」を「はけ」と呼んでいます。それは地形を表す古い言葉で関東に限らずその「はけ」と読む字があてられて各地地名として散見されます。
国木田独歩の「武蔵野」に次いでその「武蔵野」の地を耳にしがちの「武蔵野夫人」(大岡昇平)なるものでは冒頭からその「はけ」の地形が出てくるようです。
そもそもその「谷と崖と台地」の関係は城郭でいえば「堀と切岸と郭」の関係に似て、その自然形状は城普請にはうってつけです。
ということでそのベストな形状が城として防御態勢に適していると判断されて構築されたのがこの深大寺だったのでしょう(場所はこちら)。
この城の元はといえば扇谷上杉氏による多摩川左岸から武蔵を狙う小田原北条に対峙する防衛の要となった場所で文献上「ふるき郭」と呼ばれていた城と推測されています。
現状「水生植物園」という施設がその城域でそちらを散策すればかつての城を堪能できるはず・・・とお気軽気分で奥方を引き連れてそちらに向かいました。
ところがなんとその日は休園日。
後方から「こういう施設の休みは大概月曜日なんだ! 何度同じミスをやらかすんだ!」との声が聞こえて焦り、尚地団太を踏んだのでした。
ガッチリと鍵のかかったフェンスの扉をガチャガチャやっても空しいことこのうえなし③画像。
空虚に中を覗いているとそこにどなたか園の担当者らしき方が中を通りかかりました。
一か八かで「30秒でイイからあの看板を撮影させて・・・」と頼み込むと、スンナリ「ちょっとだけですよ・・・」ということで入れてくれました④⑤⑥⑦。
何と親切な方でしょう。「不去来庵」のタイミングの再来を彷彿とさせられましたね。
「また今度来させていただきます~」と言って退散いたしました。次回来る楽しみが増えたのですが、日本全国そのような場所ばかりでその時は何時になることやら。
⑥の看板に「はけ」について「園内には"はけ"と呼ばれる国分寺崖線上の・・・」とあります。⑧は城郭大系より。
①は国道20号-甲州街道。こちらを右折して②の霊園前に到着。
おそらく奥方からあちらの墓地に「もう一度行ってくれ」と頼まれてもまずムリですね。
紅葉はキレイでしたがそれを愛でる余裕がありませんでした。
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がつお (水曜日, 11 12月 2019 09:34)
「はけ」というと野川沿いに「はけの道」がありますね。
昔地図で見つけたときについ「け」に〃をつけてしまいましたが、きちんと理由のあるものだったんですね。
東京は水の道が意外と多い(もともと江戸は湿地帯ですし)と思いますが、今は道路(暗渠)になっているので気がつかない人も多いのではないでしょうか。
深大寺というと今興味をもっている「伊賀者」の給知が佐須にありました。
佐須に居住していた伊賀者はいないかもしれませんが、元々家康は江戸城を守るため(もしくは甲府に行く護衛)に伊賀者を江戸城近辺(元は糀町で後に四谷)に住まわせたとも言われているので、そういう意図もあって給知の一つにしたのかもしれませんね。
今井一光 (水曜日, 11 12月 2019 19:30)
ありがとうございます。
江戸という「都市の縁」に配された「伊賀者」の給知の一つに深大寺近くの佐須が
あったという件了解しました。
江戸城から放射状に広がる街道筋(こちらは東海道に準じて西国と繋がる甲州街道)。
都市と農村の境目の山野に、できるだけ早く不穏な空気を察するために彼らを配したのでしょうね。なにより隠密に動くために谷部の目立たぬ場所でごく普通の生活を営んでいたかと思います。監視カメラの働きでしょうね。